答えなき時代の思考術──ネガティブ・ケイパビリティ、パラコンシステント、エフェクチュエーション
第1回 執着に塗り固められた分断の壁
葛藤こそが思考を深める
この連載記事は、テクノロジーと社会の関係を論じるべく続けてきた。それがなぜ、こんなにもパンクについて立ち入った議論をするのか。それは、ライドンのストラマーについての言葉には社会の分断がどのように深められているかのひとつの理由が秘められているからだ。
ライドン自身もはっきりと「奴がやっていたのは分断を生み出すことだった」と言っている。ストラマーはみずからの出自を隠し、労働者階級の素振りをすることで、“わかりやすい正義”を提示してしまっていたのだ。
それは、これだけ先の見えない不確実性の高い時代にこそ、改めて深く考えるべき姿勢だと思う。弱者──あるいはそう見える人──や貧困層の味方をすることは疑いなく正しいことだろう。しかし、それだけでは葛藤がない。答えが簡単すぎる。わかりやすすぎる。わたしたちの思考は一向に深まらない。
弱者よりは強く、貧困層よりは豊かと思えば、そこに上下ができる。自分の視線についた傾斜をなぜ間違ったものとするだけで片付けてしまうのか。自分のアイデンティティをそんなふうに短絡的に扱って、他者が本来的にもつ複雑性をどう扱えるというのか?
余分にあるものを分けよう。再配分だ。それは悪くない。でも、なにか釈然としない。わたしたちは自分がほんとうに弱く貧しいとき──言い換えれば複雑な環境に置かれたとき──に、誰かを救うという単純な正義だけを頼りにできるだろうか。
自分がほんとうに弱く貧しいときに、それでも他者の状態に共感し救いたいけど救えるだけのものがないという、そんな葛藤こそが思考を深める。
余分があるときに余裕があるときに、誰かに手を差し伸べるのは簡単なことだ。直線的な思考といってもいい。しかし答えが簡単すぎる。思考が短絡すぎるゆえに、みずからを疑う契機がない。それは、かえって信念に固執する契機となる。みずからの答えは強固になる。そして、この執着が分断を生む。
社会に転がっている分断のほとんどがこの類だ。いま現在も喧しいオールドメディアとネットメディアの対立──いや、もう少し踏み込んでみよう。トランプや立花孝志(あるいは兵庫県知事)と、良識を語る知識人の対立にも、わたしにはこうした執着だけが目立つようでならない。どちらかが絶対的に正しいなどということはあり得ないのだ。どちらの意見や考えにもそれなりの意味を認め、思考することがなければ分断しか生まない。
この分断が、多様性につながらないのはいうまでもない。多様性が失われれば、わたしたちは変わることも成長することも止めてしまうだろう。そんな社会が幸福だろうか。行きつくところは現在の社会をみればいい。ひたすらに息苦しく、ひたすらに恨みがましい。そういう社会だ。
ライドンも件のインタビューで「俺が欲しいのは、君たちの中流階級の経験を教えてもらって、それを共有することなんだ」と言っている。これこそ多様性を認めようということではないのか。中流階級出身がおそらくストラマーにとっては恥であり罪悪感でさえあったのだろう。労働者階級を搾取しているかもしれない階級の出身である自分を対象にして深く、深く思考しなければならなかったのではないか。複雑さのなかに立ち尽くさなければならなかったのではないか。一方に寄り添ってしまうのは簡単すぎる。