答えなき時代の思考術─ネガティブ・ケイパビリティ、パラコンシステント、エフェクチュエーション
第4回 ゲラッセンハイト─執着を捨て去る

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

変化が予測不能な時代において、あらかじめ決められた正解に頼ることはむしろ危うい。執着を捨て即興的に世界と関わるためにはどうすればよいか。ハイデッカーの「ゲラッセンハイト」や仏教の「放下」にヒントを探る。

即興的にその場その時の変化に対応していく

先に、ネガティブ・ケイパビリティを説明する際に、ハイデッカーの「ゲラッセンハイト(Gelassenheit)」についてふれておいた。これについてもこの「#46 テクノ・リバタリアン〜」や「#40 鈴木大拙からスチュワート・ブランドへ ホールアースは宇宙技芸論で語れるか?」に書いている。

ハイデッカーの「ゲラッセンハイト」は「放下」と訳される。道元が『正法眼蔵』で重視した考え方で、一切の執着や欲望を捨て去ることをいう。香港の哲学者ユク・ホイが「ゲラッセンハイト」が道家思想の「無為」と同一のものであると語ったと、#40にも書いておいたが、道家と禅宗の思想的近接から言えば、「ゲラッセンハイト」と「放下」はほぼ同じことだと言えるのではないか。執着や欲望を捨て去るといえば、ストイックな態度を求めるように聞こえるかもしれないが、放下が目指すのは幸福や利他、救済といった善なる理念──正解や真実、あるいは愛──も捨て去ることだ。翻って、ネガティブ・ケイパビリティという答えを出さないことに耐える力とは、そこまで突き詰める態度であるはずだ。執着を捨てるとはそういうことだ。

それは、足場が不安定な暗闇のなかに佇むような行為だ。そうして即興的にその場その時の変化に対応していく。

仏教的、禅宗的な解釈かもしれない。デカルト的な因果論によって物事を解明するのではなく、仏教でいう因縁──ネットワークでありプロセスでもある──のなかに浸かって、決して予め定められない認識を一瞬ごとに得ていくのだ。

「言うは易し、行うは難し」である。なぜなら、これこそ矛盾という不安定のなかで合理という明かりを離れることに他ならないのだから。しかし、だからこそ僅かな光に気づくことができ、予期せぬ変化に対し体勢を即座に立て直せるのだ。時代の小さな兆候に気づき、次の行動を見つけられるからだ。

そのうえで、あらゆるものの価値を認める多様性をもつこと。二元論的な合理性によって特定の論理や専門性、解答に偏ってしまうのではなく、不確実な変化への対応準備を整えること。どんな矛盾が内包されようと複数の視点や解釈をそのまま受容して、未知の事態に即興的に対応できることが必須の状態だからだ。