答えなき時代の思考術─ネガティブ・ケイパビリティ、パラコンシステント、エフェクチュエーション
第3回 矛盾を抱えて生きるための哲学

デジタルかアナログか、理性か感情か。単純な二項対立ではもはや世界を捉えきれない。NTT前社長・澤田純氏が提唱する「パラコンシステント」という概念は、矛盾や非合理を排除せずに受け入れる思考の転換だ。
目次
パラコンシステントという概念
NTTの会長である澤田純氏が社長時代に上梓した『パラコンシステント・ワールド 次世代通信IWONと描く、生命とITの〈あいだ〉』(NTT出版)で述べられるテーマは、矛盾を許容して、“分解と合成“をあわせもつようなコミュニケーションのあり方、社会の基盤のつくり方である。書名の「パラコンシステント」とは、Aを選べばBが成り立たず、Bを選べばAが成り立たないような「トレードオフ」ではなく、AもBも許容しつつ包括的に受け入れてしまうような考え方のことで、ペルーの哲学者ミル・ケサダによる概念だという。NIKKEI BIZ GATEのインタビュー「NTT澤田社長、次世代通信支える南米哲学者の思想」で次のように語っているのがわかりやすい。
「皆さんの耳慣れない言葉ではあると思います。かつて自分が京大で学んだ土木工学はトレードオフの思想が基本です。『選択と集中』型の経営もAかBかを決めねばなりません。しかしAとBの同時実現を目指す第三の道、これをパラコンシステントと言います。デジタルかアナログか、ビジネスとしての事業性か公共性か、現場力か経営力か、中央集権か自律分散かなど、単純な二元論では答えが出せません」
京大で福岡伸一と同級生であった澤田氏は生命についても同書でこう論じている。長くなるが引用しておきたい。
しかしなぜ、パラコンシステントでなければならないのか──。
それは生命としての人間が矛盾を抱える存在であり、主観を持つ自律的な存在だからにほかなりません。森羅万象を神の目のように客観的に捉えようとするのが現在の自然科学のありようと言えますが、実際には人間が人間の知覚器官を通して世界を主観によって認識し、理解し、行動している以上は、それはあくまでも人間の目を通して見て認識した一つの世界の姿でしかありません。すなわち、客観的な世界というのは存在せず、主体の主観を通した観察しかできない、ということになります。対象が物質的なものであればまだしも、観察対象が生命や自然、さらには人間の思考や価値観などの内面にまでおよぶとき、物質に対するのと同じような客観的かつ機械論的な態度でそれらを理解し、コントロールしようとするのはそもそも無理があるのではないでしょうか。
[中略]ロジックとデータだけで機械論的に世界を認識しようとするディストピアへと突き進む前に、私たちは人間が矛盾を抱えて存在する生命であるということを前提にして、大きな方向転換を図る必要があると思っています。
パラコンシステント・ワールド ―次世代通信IOWNと描く、生命とITの〈あいだ〉
NTT出版
ISBN:978-4757104006
矛盾と非合理で居場所を取り戻す
ここで機械論といわれるのは、以前、わたしも「♯46 テクノ・リバタリアンから神秘哲学へ」でとりあげたルネ・デカルトの機械論のことである。自然世界における存在や事象には原因があり合理的な過程を経て結果に至ると考える演繹的なロジックでデカルトは機械論を構築した。デカルトはこれまでにもなんども批判されてきたように、澤田氏のいう二元論的なパラダイムの祖でもある。身体と精神、主観と客観、無意識と意識、自然と人間というような分類によって、それを合理性の礎とした。このパラダイムは何度も、何度も批判されてきたにもかかわらず、いまだに物事の判断の方法として根強い。
『パラコンシステント・ワールド』でも、人類学者グレゴリー・ベイトソンをとりあげて、デカルト的なパラダイムを超えて全体的な視点から個々のネットワークやプロセスに注視すべきと論じられている。個の総和が全体であるという合理性ではなく、個の総和は全体以上のものになりうることを説く。
合理性に囚われず、矛盾を受け入れ、多様性を活性化させていくパラコンシステントこそ、このVUCAの時代に対応しうる可能性をもっているという本書のメッセージは、そのまま「♯46 テクノ・リバタリアン〜」でわたしが書いた「矛盾と非合理で居場所を取り戻す」という意味と同じものだと自負している。