量子情報技術の重要概念「量子もつれ」とは何か
この世界は、量子もつれが生みだした幻かもしれない
量子コンピューターを理解するための量子力学入門 第5回

量子コンピューターをはじめとする量子情報技術において、これまでの回で詳しく解説してきた「重ね合わせ状態」と並ぶ重要な概念がある。それが「量子もつれ」である。量子もつれは、量子絡み合い、量子エンタングルメント、EPR相関などとも呼ばれている。量子もつれは、2つ以上のミクロな粒子の間に生じる、ある種の結びつきのことで、かのアインシュタインが「あり得ない」と考えた、非常に奇妙な現象である。さらに近年では、量子もつれがこの世界の成り立ちにも深く関わっている可能性が、理論物理学者の間で真剣に議論されるようになっている。私たちが住んでいるこの3次元空間は、量子もつれが生み出した幻かもしれないというのだ。
目次
- 「量子もつれ」とは何か
- 量子もつれは、左右1セットの手袋の関係に似ている
- 「保存則」を利用して量子もつれをつくる
- 量子もつれは“自然界の速度制限”に違反する?
- 量子情報技術と量子もつれ
- 量子コンピューターは、量子もつれを積極的に利用している
- 未知の量子ビットはコピーができない
- 量子的な情報を遠くに転送する「量子テレポーテーション」
- ホログラフィック原理と量子もつれ
- 空間は量子もつれが生みだした幻?
- この世界の根源はモノではなく、量子ビット?
- 量子力学の世界はまだまだ奥深い
「量子もつれ」とは何か
量子もつれは、左右1セットの手袋の関係に似ている
今回の主役である量子もつれとは、簡単に言うと、「複数の粒子(量子コンピューターでは量子ビット)が、離れていても互いに影響を及ぼし合える状態」のことである。特に大事なのは「離れていても」というところだ。
似たような現象は日常生活の中にもある。冬のある日、あなたは手袋をポケットに入れて外出したとしよう。寒くなってきたので、ポケットから手袋を取り出そうとすると、何と片方だけしかない。もう片方は家に忘れてきてしまったのだ。このとき、ポケットにあった手袋が右手用だったとしたら、家に忘れてきたのは左手用だということになる。逆にポケットにあったのが左手用だったとしたら、家に忘れてきたのは右手用だ。手袋には「左右1つずつで1セット」という関係性があるため、一方が左右のどちらなのかが分かれば、遠く離れたもう片方がどちらなのかも、瞬時に分かるわけだ。一方が右なら他方は必ず左、一方が左なら他方は必ず右という“縛り”が存在するのである。
この例では、どちらがポケットの中にあり、どちらを家に置き忘れたかは、あなたが自宅を出たときにすでに決まっていたはずだ。しかしミクロな世界では話が大きく変わってくる。ミクロな世界では、たとえて言うなら、ポケットの中は「右手用の手袋だけが入っている状態」と「左手用の手袋だけが入っている状態」が重なり合った状態になることができる。そして観測によってポケットの中が「右手用の手袋だけが入っている状態」に確定すると(状態の収縮)、遠く離れた家のタンスの中も瞬時に「左手用の手袋だけが入っている状態」に確定するのだ。このたとえ話の「右手用の手袋だけが入っている状態」を量子ビットの0、「左手用の手袋だけが入っている状態」を量子ビットの1の状態だと考えれば、量子コンピューターでの量子もつれ状態になる。
この話の核心は、一方の量子ビットを観測して状態の収縮を起こすと、その瞬間に、離れていた他方の量子ビットにも状態の収縮が起きる、という点である。他方の量子ビットには何も手を加えていないにもかかわらず、状態の収縮が起きるのだ。マクロな世界の常識からすれば、何とも奇妙な現象だと言えるだろう。
「保存則」を利用して量子もつれをつくる
左右の手袋のような関係性(縛り)は、物理学における「保存則」を利用することで作り出すことができる。
よく滑る床の上で、あなたは車輪付きの椅子に座っているとしよう(床と車輪の間の摩擦は無視できるとする)。さて、足は床から浮かせた状態にして、手に持っていた重いバッグを前方に放り出すと何が起きるだろうか? 普段はあまり意識していないかもしれないが、何かに力を加えるときには、必ずあなた自身も、同じ大きさで逆方向の「反作用」という力を受ける。その結果、バッグを前方に放り出した瞬間、椅子はその反作用で後方に動き出すことになるのだ。
この現象は「運動量保存則」を使って説明することも可能だ。運動量とは、運動の勢いのことで、「重さ×速度」で表すことができる(厳密に言うと、重さではなく質量)。同じ速さでもより重い物体の方が、そして同じ重さでもより速い物体の方が、運動の勢い(運動量)は大きくなるわけだ。運動量保存則とは、「外部から力を受けない限り、運動量の合計は変化しない(保存される)」ということを意味する。
上の椅子の例でいうと、最初は静止しているので運動量の合計は0だ。前方に放り出されたバッグの運動量をPとすると、運動量保存則によって、あなたが座った椅子はこの値にマイナスの符号を付けた−Pの運動量をもつことになる。両者の運動量の合計は、最初の運動量の合計である0に一致する必要があるからだ(式であらわすと「P+(−P)=0」)。椅子がマイナスの運動量をもつ、とはすなわち、バッグと逆向きに椅子が動き出すことを意味する。なお、椅子の速さは、Pを椅子の重さ(あなたの重さを含む)で割った値になる。
運動量保存則はミクロな世界でも成り立つ。2つの電子Aと電子Bの運動量の合計が最初は0で、その後、2つの電子が運動量保存則を満たした状態で同じ場所から飛び出したとしよう。電子Aの運動量をPとすると、電子Bの運動量は−Pだ。これは電子Aがどんな運動量Pの値をもつときでも成り立つ。
電子Aの運動量は、様々な値の重ね合わせ状態になることができる。2つの電子Aと電子Bが遠く離れた段階で、一方の電子Aの運動量を観測して、その値が5だったとしよう(電子の運動量の単位はここでは重要ではないので省略する)。つまり電子Aは多数の運動量の重ね合わせ状態から、運動量5の状態に収縮したわけだ。するとその瞬間、重ね合わせ状態だった他方の電子Bの運動量も−5の状態に収縮する。電子Aの運動量が2に収縮した場合は、電子Bの運動量は−2の状態に収縮する。このような2つの電子の関係性が量子もつれである。保存則などの“縛り”によって、遠く離れた2つの電子が瞬時に影響を及ぼし合うような状態になっているのである。
量子コンピューターの量子ビットは、0と1の2つの状態しか取れないようになっているので、話はもっと単純だ。例えば、量子ビットAが0なら量子ビットBは1、量子ビットAが1なら量子ビットBは0というように「互いに逆の値をとる」といった縛りのある状態、もしくは量子ビットAが0なら量子ビットBも0、量子ビットAが1なら量子ビットBも1というように「必ず同じ値をとる」といった縛りのある状態が、量子コンピューターにおける量子もつれである。
量子もつれは“自然界の速度制限”に違反する?
量子もつれになった2つの量子ビットでは、一方の量子ビットで状態の収縮が起きると、他方の量子ビットがどんなに遠く離れていても、瞬時に状態の収縮が起きる。例えば、一方を地上、他方を約250万光年(光で到達するのに250万年かかる距離)離れたアンドロメダ銀河に持って行ったとしても、時間差なしで瞬時に状態の収縮が起きるのである。アンドロメダ銀河までの距離というのは極端な思考実験だが、実験でも、地上と人工衛星の間などで量子もつれが実際に作り出されている。
さて、量子もつれの奇妙なところは「一方の影響が瞬時に他方に伝わる」という点である。これは一見すると、「光速より速いものはない」という、アルバート・アインシュタイン(1879〜1955)の相対性理論による予言と矛盾しているように思える。光速とは、真空中での光の速度(秒速約30万キロメートル)のことである。量子もつれでは、光を超える速度で一方から他方へ影響が伝わっていることになるので、相対性理論の予言に反しているように見えるのだ。
実は、量子もつれの存在を最初に予言した一人はアインシュタインである。1935年、アインシュタインとその共同研究者であるボリス・ポドルスキー(1896〜1966)、そしてネイサン・ローゼン(1909〜1995)は、量子力学が正しいとすると、量子もつれのような奇妙な現象が起きることになり、それは相対性理論が予言する速度の上限とも矛盾する、だから量子力学は不完全である、と主張したのだ。この量子もつれの奇妙なパラドックスは、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの頭文字をとって「EPRパラドックス」と呼ばれ、量子もつれは「EPR相関」とも呼ばれる。
相対性理論によると、物体の移動速度や情報の伝達速度が光速を超えることはないとされる1。相対性理論の知識が必要になってくるので詳しい説明は省くが、もし光速を超えた情報の伝達が可能だとすると、過去に情報を送ることも原理的には可能になってしまう。極端な話、交通事故にあった翌日に、昨日の自分に「事故に遭うから家から出ないで!」とメッセージを送って、過去を変えることも可能になってしまうのだ。これは因果律(あらゆる現象には、時間的に先んじた原因があるとする考え方)の崩壊を意味する。
残念ながら量子もつれを使って、意味のある情報を光速を超えて伝えることはできないことが現在ではわかっている。そのため、量子もつれが相対性理論と矛盾しているとまでは言えないようだ。量子もつれを使って過去へ情報を送ることも当然できない。
アインシュタインらは、遠く離れた2つの物体間には何の結びつきもないはずだ、と考えた。それを前提にして量子力学は不完全だと主張したのだ。しかし1982年にアラン・アスペ(1947〜)の実験によって、遠く離れた2つの物体間の奇妙な結びつき(非局所相関)、すなわち量子もつれが実際に存在することが実証された。現在では、量子もつれの存在は疑いのないものだと考えられている。