行動経済学と機械学習で、人の「ココロ」がわかる?
京都大学大学院経済学研究科教授 依田高典氏に聞く(1)

バイアスとナッジの行動経済学ブームと第 3 次 AI ブーム。ともに統計学を出自とする経済学とデータサイエンスが融合して、その行動の解析を通して人間観を問い直そうとしている。ミクロ経済学・マクロ経済学・計量経済学からなる主流派経済学に加え、行動経済学・実験経済学・ビッグデータ経済学の 3 本柱からなる「エビデンス経済学」を提唱する依田高典氏に話を聞いた。ときに非合理な人間の「ココロ」をとりもどす経済学の先にあるものとは。

(いだ たかのり)
京都大学大学院経済学研究科研究科長・教授
1965 年新潟県生まれ。1989 年京都大学経済学部卒、1995 年京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。現在、京都大学大学院経済学研究科教授。同研究科長(2021 〜 2023 年度)。その間、イリノイ大学、ケンブリッジ大学、カリフォルニア大学客員研究員を歴任。専門は応用経済学。情報通信経済学、行動経済学の研究を経て、現在はフィールド実験とビッグデータ経済学の融合に取り組む。主な著書に『Broadband Economics: Lessons from Japan』(Routledge)、『スマートグリッド・エコノミクス』(有斐閣、共著)、『ブロードバンド・エコノミクス』(日本経済新聞出版社)、『行動経済学』(中公新書)、『「ココロ」の経済学』(ちくま新書)などがある。日本学術振興会賞、日本行動経済学会ヤフー論文賞、日本応用経済学会学会賞、大川財団出版賞、ドコモモバイルサイエンス奨励賞などを受賞。
目次
ビッグデータ時代に誕生した、新しい行動経済学の時代
都築正明(以下、――)現在、行動経済学やナッジの概念が注目されています。先生にはまず、行動経済学の発生と経緯について伺いたいと思います。
依田高典氏(以下、依田) 行動経済学は、経済学で仮定されていた、自己の利益を最大化させる合理的な経済人=ホモエコノミカスという人間観を疑いました。1978 年にノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモン1は、生身の人間が完全に合理的であることはない、という限定合理性を唱えるとともに、熟考を伴わないヒューリスティックスという非合理な行動があることを示して、伝統的経済学を批判しました。その後、心理学者であったダニエル・カーネマン2とエイモス・トヴァルスキー3が共同で、人間がときに非合理な意思決定をすることを説明したプロスペクト理論や、その際にはたらくバイアスを提示しました。トヴァルスキーは若くして亡くなってしまうのですが、カーネマンは 2002 年に心理学者としてはじめてノーベル経済学賞を受賞しました。カーネマンの後継者――「追っかけ」であったというほうが近いのですが――であったリチャード・セイラー4は、人間の行動変容を促すナッジ(Nudge)を示し、2017 年にノーベル経済学賞を受賞しました。最初は異端としてみられていた行動経済学も、このあたりから主流経済学の流れに汲み入れられていくことになります。
ここまでが、現在の行動経済学ブームでいわれていることですね。これを「古い行動経済学」とすると、その先にはどのような進展があったのでしょう。
依田 次に、フィールド実験という学問分野で、行動経済学者がノーベル経済学賞を受けることになりました。コントロールグループとトリートメントグループを設定して、RCT(Randamized Controlled Trial:無作為比較対象法)によって因果関係を識別する、というものです。医薬の臨床実験では対照群と治療群とをわけて、対照群にはプラセボを、治療群には治療薬を投与して効果を判断しますが、同じことを社会実験としても行えることを示したのです。2019 年には開発経済学においてフィールド実験、RCT ランダム化の社会実験を行った MIT のグループにノーベル経済学賞が授与され、 2021年には自然実験において原因と結果とを統計学的に正しく識別できることを理論的に証明したグループに授与されています。流れとしては、行動経済学が第 1 の革命、この因果推論が第 2 の革命となっています。いままでの経済学は非常に抽象的な学問で、 実験できるデータが非常に限られているために、数学的に証明することで「わかったつもり」になる学問だったんです。
「微分積分」の「積分」の間にレ点をふって「微(かす)かに分かって・分かった積もりになる」と陰口を言う学者もいました。
依田 それが、いまはビッグデータの時代になり、IoTで、人間の行動履歴に関わるデータが、スマートフォンやスマートメーターなどのスマートデバイスを経由して、どんどんサーバやクラウド側に蓄積されるようになってきています。その結果、私たち研究者や GAFAMのようなビジネス側が、私たちの毎日の行動を、非常に高頻度なビッグスケールのデータとして使えるようになってきました。ここで、行動経済学と因果推論の融合が起こります。
実データを分析して、私たちの行動そのものを分析できるようになるわけですね。
依田 カーネマンやセイラーの時代の行動経済学は、ある意味ではわがままな経済学でした。きちんとしたエビデンスはないけれど、人間というのはだいたいこういうものです、と示すに留まっていました。
研究室の学生にアンケートをとったらバイアスがみられた、統計学の学生でも同じバイアスがみられた……という質問紙形式ですね。
依田 はい。大学生 100 人に聞きました、という程度のレベルのエビデンスで人間のバイアスというものを特定したつもりになっていました。この時点でノーベル賞を受賞した人たちのいうバイアスには、エビデンスが弱く再現性が取れないものもあります。それは、実験のやり方、さらにいえば因果推論の識別が甘かったからです。 しかし、いまビッグデータの時代になって、因果推論が可能になってきていますから、きちんとした行動変容の仮説検証ができるようになってきました。
よりリアリティのある学問になってきた、ということですね。
依田 20 世紀の経済学は、データが不足していてエビデンスがないにもかかわらず、数学的な証明を用いることで科学としての意匠をまとっていた、といえるかもしれません。21 世紀には十分なデータが採れるようになり、データに基づいて実験的な手法に基づいて因果推論を行うことが可能な学問として、経済学が生まれ変わりました。行動経済学と因果推論が融合して、実証的な行動科学というのが完成した。これが、21世紀の新しい科学的・実証的なエビデンスの学問としての経済学の姿になっています。 近年ノーベル経済学賞が頻出される分野になってきているのも、その現れでしょう。