閉域のウィルス──組織のダブルバインドと知の相転移
4:相転移、質的な代謝が起きるとき

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

目次

AIが迫るエポケー的な空白

制度の相転移

 

AIが迫るエポケー的な空白

拡散を本質とするAIを企業や法制度という収束の器に閉じ込めることは原理的にできない。統制(ガバナンス)を強化するほど互いの矛盾は深まるばかりだ。

企業や事業におけるDXという文脈においても、著作権という文脈においても、わたしたちが目撃しているのは同じ光景だ。AI活用を制限するガイドラインを策定すれば、管理の届かない場所での「シャドーAI」——社員が個人端末で密かに使いつづける生成AI——が組織の隅々に広がっていく。イラストレーターが画像生成AI企業を訴え、声優が自分の声の無断複製に異議を唱え、作家がOpenAIを著作権侵害で提訴する。しかし訴えれば訴えるほど、何が侵害で何がそうでないかの境界線は曖昧になっていく。AIの学習データをめぐる法的グレーゾーンは拡大していく。

クラウドを導入しながらオンプレミスと変わらない運用を続け、生成AIを解禁しながら「業務外使用禁止」の但し書きをつける。収束を原理としたガバナンスが、発散を原理とするテクノロジーを抑え込もうとして、みずから硬直し機能不全に陥っていく。

収束の器の壁を厚くするほど、内側で不活性化したテクノロジーの圧力は高まるようだ。それはやがて、制御が追いつかない臨界点にまで達するだろう。

ここで、ベイトソンが学習Ⅲと呼んだ段階を思い出してほしい。学習Ⅱで獲得されたメタなルール、つまりわたしたちが「常識」「制度」「法」と呼んでいるものが、恣意的な構築物にすぎないことに突如として気づく瞬間のことだ。著作権が自然な権利ではなく、ある歴史的条件のもとで設計された収束の装置(制度)でしかないこと。企業のサイロ構造とは経営の合理性などではなく、特定の時代の競争環境にたまたま適応した暫定的な形態にすぎず、時代がうつろえばその構造はたちまち陳腐化し、新たな適者が現れて競争のルールごと書き換えてしまうこと──それは、この十数年のうちでもなんども目にした光景ではないか。

企業組織のあり方が時代によって変わるように法制度もまた普遍でも不変でもない。

これまで自明だと思っていたものが、あるとき突然、ただの恣意的な構築物として眼前に浮かびあがる。その瞬間、思考は一瞬の空白に落ちる。フッサールがエポケーと呼んだような体験。何を問えばいいかもわからない、しかし何かが決定的に変わってしまったことだけはわかる。それまで空気のように信じていた前提をいったん括弧に入れ、思考の空白のなかで世界を見直す。その空白から初めて新しい認識が生まれる。

いま起きようとしているのは、ベイトソンのいう学習Ⅲの強制的な発動である。学習Ⅰが個別の問題を解くことであり、学習Ⅱがその背後にあるルールやパラダイムを習得することだとすれば、学習Ⅲとはそのパラダイム自体が恣意的な構築物にすぎないと突如として覚悟する瞬間のことだ。著作権が自然な権利ではなく歴史的に設計された収束の装置であること、企業のサイロ構造が経営の合理性ではなく特定の時代の産物にすぎないこと。それらはいずれも学習Ⅱのパラダイムであり、わたしたちが自明の前提として空気のように機能させてきたものだ。AIの発散による遍在は、このエポケー的な空白を、個人の内面ではなく社会規模で、否が応にも引き起こしつつある。わたしたちの日常の内側から静かに前提を無効化することで学習Ⅲへの跳躍を迫っている。

 

制度の相転移

物理学に「相転移」という概念がある。水が氷になる瞬間、あるいは水蒸気になる瞬間のように量的な変化の蓄積がある閾値を超えた瞬間に物質の状態が質的に一変する現象だ。

装置や制度もまた相転移する。じわじわと綻びを重ねながら、ある瞬間に旧いパラダイムが崩壊し、新しい秩序の原理が一気に立ち現れる。

著作権制度が音楽業界を席巻したのが20世紀だとすれば、ストリーミングはすでにその相転移の予兆だった。楽曲を所有するのではなくアクセスするという消費様式の転換は、“偏在”から“遍在”へという静かな移行を示していた。もっともストリーミングサービスは、SpotifyやApple Musicという新たなプラットフォームへの偏在を生んだという反論もあるだろう。しかしそれは著作権的な表現の独占とは性質が異なる。楽曲へのアクセスは民主化され、誰もが同じ一曲に同時にたどり着ける。偏在を強めたのは流通の権力であり──かつての独占者は新しい独占者に交替をよぎなくされた──、表現そのものではない。AIはその流れを比較にならない速度で加速させている。

それでは制度の相転移とは何か。それは制度の消滅ではない。著作権という収束の制度は消滅するのではなく、遍在を前提とした新たな知の流通の仕組みへとつくり替えられていくのではないかとわたしは考えている。サイロとなった企業組織もまた解体されるのではなく、発散を活かす協働の形態へと更新されていかなければ時代に取り残されるのではないか。古い制度が壊れるのではなく、その原理ごと作り替えられる。それは「再定義」である。わたしがIT批評で15年来訴えつづけていることだ。

ベイトソン的に言えば、学習Ⅱのパラダイムが学習Ⅲの洗礼を経て新たな学習Ⅱへと相転移するフェーズだ。この循環こそ、ベイトソンの論のもっとも重要な部分だとわたしは思う。循環がなければ硬直し、たとえば独占者の支配は継続してしまう、たとえば組織の行動はただ儀礼になり実行力を失う、たとえば(次回を先取りしていえば)遊戯は実用にならず実用も遊戯にならない。

第1回でわたしはホッファーの言葉を引いた。「未完の(二流の)作家や芸術家の方が独創性を刺激する可能性が明らかに大きい」と。AIという“ウィルス”は、不完全で、統計的で、どこか空疎だ。しかしその不完全さこそが、収束した制度の硬直を内側から溶かし腐らせ、次の独創性の土壌となるのかもしれない。原理が刷新されたその先に現れるのは、管理なき混沌ではなく、不完全さを抱えたまま発散しつづける──これこそネガティブケイパビリティだ──知の新しい生態学のはずだ。

 

しかし社会制度が相転移するとき、もっとも深く揺さぶられるのは組織でも法律でもなく、その只中に生きる個人の認識である。それはベイトソンが批判した、収束的な「大きな物語」への回帰への誘惑と向き合うことでもある。ヘーゲルがいう歴史の終わり、マルクスの階級闘争の止揚、カーツワイルのシンギュラリティ。これらはいずれも、発散するプロセスをある一点へと収束させようとする線形的な進化論——あるいはユク・ホイが指摘した京都学派の形而上学的ファシズム——の変奏だ。ベイトソンのいう「すべての革新的創造的システムは発散する」という洞察に従えば、終着点へ向かう物語そのものが、生命的なプロセスの否定にほかならない。現在、AIが引き起こしているエポケー的な空白は、そうした大きな物語の自明性をも括弧に入れる契機となりうる。

しかし逆説的に、AIが知を遍在させようとするほど人間は知を囲い込もうとする。

思い出しておきたいのは、第1回で触れた遊戯と実用のことだ。

Linuxを開発し無料で公開したリーナス・トーバルズは、「それが面白かったから」だという。実用でも利益でもなく、遊びとしての知の共有。それがオープンソース革命の出発点だった。しかしいま、知は「武器として所有するもの」へと変質しつつある。「教養」という名の収束の器に、いま多くの人が殺到している。次回はその違和感を手がかりに、遊びとして共有される知性と、武器として独占される教養の対比から人間の創造性の問題へと踏み込んでいきたい。〈了〉