共同主観的ネットワークの虚構と生成AIのハルシネーション ──ハラリ『NEXUS』が示唆した領域
第3回 「受肉」する機械と、身体性と倫理をめぐる問い

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

身体をめぐる宗教思想

現在においてAIの進化の過程で、改めて身体性が話題にされロボティクスへの期待が高まるのは、ある意味で身体への回帰ともいえるかもしれない。

カーツワイルのトランスヒューマニズムは、まさに身体の重要性を物語るもの、神に代わるテクノロジーによって“受肉”されることを望んでいるように感じる。カーツワイルが求めるものが新しい大きな物語だとすれば、彼の身体性への関心には納得しかない。

受肉と言って思いついたのだが、メタバースのようなヴァーチャルな世界でヴァーチャルな身体を得ることも「受肉」と言われる。してみると、身体性はロボティクスのみに向かうわけでなく、先にみた世界モデルのような高度なシミュレーションに向かうことも理解できる。受肉という語はキリスト教において「イエス・キリストが神の御子として人間性を得たこと、つまり神の御子が人間の姿でこの世に現れたこと」に由来する。

わたしが関心を向ける点がそれである。それは多くの宗教が身体を蔑む一方で、宗教儀式が激しい身体的参加を求めることである。祈り、断食、苦行、踊り、巡礼──宗教は身体を通じてしか精神的な体験や共同体への帰属、聖性の感覚を得ることができない。苦行や身体的犠牲は、信仰の真剣さを示し共同体の結束を強化する。儀式は日常から切断され、聖なる領域を体験するためのものであり、身体的な行為は非日常的な高揚や一体感を生み出し、精神の鍛錬や浄化をもたらすのだ。

宗教は、身体という現実を超えるべきものとしつつも、身体という現実を通じてしか超越や救済に至れない。この逆説が、宗教の本質であり、人間の根源的な身体観でもあるとわたしは考える。たとえばプロテスタントの予定説からくる勤勉さも身体によって表現されるものだ。そしてウェーバーによれば、そういう身体が資本主義を産み落とした。

とはいえ、心や魂には身体にはない永遠性があるというのが宗教の霊性だ。カーツワイルはみずからの知能をデータ化して保存することを目指すといっているが、これは心や魂に永遠性をもたらす宗教的な行為だ。

この永遠性はむしろ倫理観を阻害しはしないだろうか。わたしは以前、身体の有限性、つまり限りある生命だからこそ倫理というものが求められるのではないかと論じた。老いも病もある身体を正しく理解し運用することこそ、倫理的な振る舞いにつながることにならないか。身体への理解への契機となるのが、宗教儀式の類なのではないか。信仰の切実さを証明するものとして身体があるなら、その切実さは身体の正しい運用によって示され、身体の運用は心や魂のあり方を表すという論理ではないか。

身体性と倫理の問題は、AIのフレーム問題として考えることもできる。5歳児にできることができないAI、成熟した知識人にできないことができるAIとは、身体運用の未熟さと考えることができるし、AIの倫理の未成熟をみることもできる。非常に宗教的な部分があるとわたしは考えるが、これ以上は論をつなぐことができない。

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