共同主観的ネットワークの虚構と生成AIのハルシネーション ──ハラリ『NEXUS』が示唆した領域
第2回 繋がりは自由を生むか、支配を招くか ネットワークの現在地

多様な小さな物語がネットワークされるべき時代に、「大きな物語」への回帰が再び顔を出している。ハラリの最新作『NEXUS』を手がかりに、ネットワークがもたらす自由と支配の両義性、そしてAI時代における知性と分断の本質を探る。
目次
大きな物語というイデオロギーへの回帰
前回の記事(#56 答えなき時代の思考術──ネガティブ・ケイパビリティ、パラコンシステント、エフェクチュエーション)で、わたしは反近代の動きがユク・ホイのいう「形而上学的ファシズム」に通ずる新たなイデオロギーによって分断を生み出さないためにも、多様性に対して即興的に評価を加えながら流動性を保持し、小さな物語をネットワークしていくことが重要ではないかと述べた。
ジャン・フランソワ・リオタールは『ポスト・モダンの条件 知・社会・言語ゲーム』(小林康夫訳/水声社)で、近代化の世界観の根底にある人類共通の──普遍的な──幸福を目指す歩みとしての“大きな物語”を批判して、ポスト近代は個別の論理と価値観によるそれぞれの──言語ゲームに閉ざされた──小さな物語を生きることで共通の価値観が喪失すると唱えたことはここでもとりあげた。
歴史上、失われた大きな物語への回帰は繰り返し起きてきた。そのたびに、大きな物語を求める動きは原理主義的に過激になった。カトリックに対するプロテスタントであり、イスラム教のスンニ派とシーア派であり、平安仏教や密教系二宗に対する鎌倉新仏教などである。原理原点(伝統)という大きな物語への回帰こそ、宗教にたびたび見られる動きだ。宗教にかぎらず回帰運動に伴い過激化せざるを得ない思想に対する危険をわたしはなんどか述べてきたつもりだ。
だから、カーツワイルについても、最新刊に至るまでのハラリについても、そういう回帰の運動の最新バージョンとして読んできた。最新刊に至るまでと書いたのは、ハラリがむしろ大きな物語への回帰──「大きな物語の生成」というべきかもしれない──を警戒していることを最新刊の『NEXUS』から明確に読み取ったからだ。
ハラリが危険視する「共同主観的現実」こそ、大きな物語のことであり、おそらくはユク・ホイが警戒する「形而上学的ファシズム」に通底するものだろう。それどころか、ハラリはテクノロジストたちのあいだに見え隠れするユダヤ=キリスト教的価値観さえ明確に批判する、次のような意見を紹介する。
哲学者のメーガン・オギーブリンは著書『神、人間、動物、機械(God, Human, Animal, Machine)』で私たちがコンピュータをどう理解するかは、伝統的な神話に強く影響されていることを証明している。特に、ユダヤ=キリスト教的神学の全知で人知を超えた神と、下す決定が不可謬でしかも不可解に思える今日のAIの類似性を強調している。
ハラリは神話のような虚構を現実化する共同主観──大きな物語──を生成するのはネットワークだという。実はわたしはここでページを捲る手が止まった。なぜなら、前回に書いたような多様性を担保するのは、小さな価値観のネットワークであるべきだと考えていたからだ。ネットワークこそ、包括的なイデオロギーに対抗しうる方法だと考えていたからだ。
ジャン フランソワ リオタール 著
小林 康夫 (翻訳)
水声社
ISBN:978-4891761592