共同主観的ネットワークの虚構と生成AIのハルシネーション ──ハラリ『NEXUS』が示唆した領域
第3回 「受肉」する機械と、身体性と倫理をめぐる問い

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

AIの進化において「身体」は必要か──。ロボティクスから宗教思想、倫理の問題にまで及ぶこの問いは、現代の技術と人間理解をつなぐ鍵である。身体性をめぐる哲学的・宗教的視点から、AIの未来を再考する。

目次

AIが求め、人が忌避する身体

先に身体について触れると書いておいた。

AIは研究開発の歴史なかでこれまで何度も身体性を強く求められてきた。身体性の獲得こそ、AI進化の次のブレイクスルーになるといわれ、ロボティクスとの接近が繰り返されてきた。しかし、現在までのところ大きな成果は得ていない。

東京大学の松尾豊教授もベストセラー『人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの』(角川EPUB選書)のなかで、「身体を持つこと」が単なる技術的な課題を超え、知能の本質に迫る問いであると論じていた。

それが2020年ごろから、松尾先生はAIの進化に身体は必ずしも必要ないのではないかと述べるようになった。AIは人間の知能を目指す必要はないのではないかという論点に立てばおのずと身体の必要性は減じる。

これは人間的知能を目指す「汎用型AI」と、画像処理や数理推論といった特定タスクに最適化された「特化型AI」の違いに起因する。「特化型AI」には当然のこと身体性は求める必要はない。

論点を広げてみる。世界モデルといわれる技術が完成すれば、フレーム問題のような身体を通しての世界理解をも、高度にシミュレーションできるようになる。

フレーム問題とは、AIにたとえば単純な家事を指示した場合において、「キッチンでお湯を沸かそうとしたらコンロのうえに猫がいた」というようなことに正しく対処できない事態で、現在でも解決に至ってはいない。

この問題は言い換えれば、5歳児にはできるのにAIにはできないという行動があまたあることも示している。

身体性に対する見方が変化した理由には、大規模言語モデルが身体性──身体的経験──と不可分である記号設置問題において、データだけで文脈を理解しうることが常識になったこともある。

わたしがAIと身体性の問題を改めてここで取り上げるのは、そこに倫理の問題が深く関わっていると考えるからだ。

AIが社会に受け入れられるためには、もちろん合理性や効率性だけでなく倫理的判断や共感といった人間的価値観への適合が不可欠である。昨今のAIエージェントをめぐっても自由意思や感情といった点が取り沙汰されている。EUの規制もこの部分に大きく関わってくる。

この身体性について言い換えれば、それは心身問題とも通じてくる。心身が合わさったものとすればそれは「汎用型AI」であり、マクルーハンのいうように人間の知能や身体機能の一部分の拡張としてであれば「特化型AI」ということになる。

ハラリの『NEXUS』でも最終盤において心身問題がでてくる。まさにこれはカーツワイルの目指すトランスヒューマニズムとの神学論争の様相を呈する箇所かもしれない。

競合するキリスト教の宗派間や、ヒンドゥー教徒と仏教徒の間、プラトン主義者とアリストテレス主義者の間で見られたような、宗教や文化をめぐる多くの対立は、何千年にわたって、心身問題についての意見の衝突によって煽られてきた。人間は物質的な身体なのか、それとも非物質的な心なのか、ひょっとすると身体の中に囚われた心なのか? 二一世紀にはコンピューターネットワークがこの心身問題を激化させ、個人間の、あるいはイデオロギー上、政治上の主要な対立に変えるかもしれない。

『NEXUS 情報の人類史』

人間は長らく宗教や哲学を通じて身体性を精神性から切り離そうとしてきた歴史がある。身体を「超えるべきもの」「抑えるべきもの」とする霊肉二元論はキリスト教や仏教をはじめとする多くの伝統的宗教に共通する特徴である。近代科学の扉を開いたデカルトの二元論も同じだ。

しかし、ハラリはユダヤ教においても、初期のキリスト教においても身体は個のアイデンティティそのものを示すものであり、イエスの復活劇こそ魂ではなく身体──現世──の重要性を表すものだったと述べている。肉体こそ、飢えや渇き、欲の源であるという見方は多くの宗教で共通だ。ブッダが若き頃にヒンドゥー教の苦行に身を投じたのも同じことである。

わたしたちは肉体を離れ、精神の高みを目指すことに大きな価値を見続けてきた。それは現世を離れ来世(天国)での幸福を約束するものとして。もちろん先述したように、宗教では幾度も新しい宗派が、大きな物語に回帰する際に身体性の見直しを図ってきた。ただやはり身体はつねに心にとって枷であった。それが苦悩の一端でありつづけた。

だからこそ、わたしは前回の記事で道元の放下をネガティヴケイパビリティと同時にとりあげたし、同じく道元が「正法眼蔵」でいった「心身脱落」が今なお意味をもつものだと考えている。

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