共同主観的ネットワークの虚構と生成AIのハルシネーション ──ハラリ『NEXUS』が示唆した領域
第4回 推し活にみる身体性への回帰

デジタル化が進む現代で、即興的かつ一回限りの「生きた」パフォーマンスが示す身体性は宗教的体験に似た重みをもつ。推し文化やアイドルのライブに見る身体性は、儀式や信仰にも通じ宗教的倫理や救済の構造と深く関わっている。
目次
現代文化に表れた身体を通じた宗教性
宗教性と身体性が深く交差するアクチュアルな例をもうひとつ挙げておきたい。
2013年、わたしは社会哲学者の清家竜介さんと共著で『ももクロ論 水着と棘のコントラディクション』(実業之日本社)を上梓した。そのなかで、ももいろクローバーZというグループのパフォーマンスの魅力について、まさに身体性と即興性について論じた。Wikipediaにもその箇所が残っているので、引用しておく。
ももクロのステージにつねに魅力的な即興性が現れるということはもちろんないが、高確率にそれが生み出される現場を、多くの大人たちは目撃した。その瞬間、彼女たちはステージの上で“生きている”。この生きている姿こそ、私たちを感動させるものの正体ではないか。
魅力的な即興性が生じてしまう要因を身体にかけられた負荷にあると考えた。それはまさに苦行であり、ひとつの祈りのように感じた。それが生きる姿そのものを現していた。「生きている姿」には倫理がある。単純に一生懸命だとか必死という精神性以上のものを示すのは身体性だったと思う。
『ももクロ論』のなかで、もうひとつ考えたのは、ヴァルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』(佐々木甚一訳/晶文社)で論じたアウラだ。近代に入り、写真や映画といった複製技術によって、芸術作品のもつ再現不能な唯一性としてアウラが失われたとベンヤミンが同書で論じたことはつとに有名だ。
2010年代、音楽配信サービスが普及するにつれ、CDは握手券としてしか売れなくなったなかでライブの重要性が見直されるようになっていた。欧米では、アーティストたちがレコード会社ではなくイベント会社と契約を結ぶようになっていた。
わたしはこの時代を、ビートルズがライブ活動をやめ長尺のアルバム音源の発表をメインとする活動に切り替えた時代が、50年ぶりに切り替わった時代だと考えた。即興性、一回性をそれまで以上に人々は求めはじめたのではないかと。それは、精神性から身体性への回帰ともいえたかもしれない。
この動きは10年を経た現在でも継続されている。「推し文化」の根底には、この即興性、一回性に通じる身体性がある。「生身の身体による唯一のパフォーマンス」や「現場体験」の価値が高まる。ライブ、舞台、握手会、チェキ会──これらは、デジタル化・AI化が進む現代において、逆説的に身体性への渇望が強まる現象である。
清家 竜介, 桐原 永叔 (著)
有楽出版社
ISBN:978-4408593999
ヴァルター ベンヤミン (著)
佐々木 基一 (編集)
晶文社
ISBN:978-479491266
萌えから推しへ
この10年における変化を「萌えから推し」と位置付けたのはエンタメ社会学者の中山淳雄氏が書いた『推しエコノミー 「仮想一等地が変えるエンタメの未来」』(日経BP社)である。同氏の他の書籍と同様に膨大なデータから現状を鮮やかに解き明かしてくれるだけでなく、以下のような節もあり同氏のコンテンツビジネスへの深い想いが伝わってくる。推しの経済圏は単純なものではない。イベント、物販のみならず、イベント参加のためにファンたちは着飾り、推しのためにイベントに通い、同じコンテンツを繰り返し観る。
クリエイターは希望でなく絶望の中から生まれる。映画やアニメやゲームといった映像の世界に限らない。マンガ家であっても、タレントであっても、俳優であっても同じだろう。およそ創作に携わる人種のなかで自分自身への絶望を味わわずにスターダムに立った人間を私は知らない。
絶望という痛みを知っている“選ばれし者”に帰依するという推しの姿には、宗教との類似も垣間みられる。「巡礼」といったワードが、この経済圏に定着しているのも同じ理由だろう。
推しのライブやイベントは複製できない、その場限りの体験=身体性の祝祭である。ファンは推しの身体的存在を直接感じることで、デジタルでは得られないリアルな充足感や一体感を得る。推し文化は、偶像(アイドル、アーティスト、キャラクター)を中心に、儀式(ライブ、イベント)、聖地巡礼(現場参戦)、共同体(ファンダム)を形成する。ファンは推しに“救済”や“癒し”を求め、グッズやライブ参加を通じて信仰告白や布施に近い行為をする。
推しの言動や存在が教義や聖典のように語られ、SNS上で布教活動も行われる。宗教儀式が身体的な参加を伴うように、推し文化も、身体を現場に運ぶ、声を出す、踊るなど、身体的な関与が重視される。推しのライブは、現代の“宗教的祝祭”とも言える。
推し活動はこのような身体性を通じている。ゆえに倫理とも接近する。推しの裏切り(失言、不倫など)はだからこそあそこまで過剰に反応され、宗教団体の弾劾に似た様相を呈してしまうのではないか。
中山 淳雄 (著)
日経BP
ISBN:978-4296000357