共同主観的ネットワークの虚構と生成AIのハルシネーション ──ハラリ『NEXUS』が示唆した領域
第5回 生成AIと身体性のはざまで問われる倫理

身体は予測不能で矛盾に満ちた現実の象徴だ。だからこそ人は精神や秩序に逃避するが、生成AIの語りも同じく身体性を排除する。今、私たちに問われるのは、理解不能な身体や他者にどう応答するかという倫理である。
目次
身体という現実の不確かさに耐える
思えば、身体性という現実そのものがあまりにも複雑で、予測不可能で、矛盾を内包したものだ。だからこそ、わたしたちは宗教や哲学においてそれを避け、心や精神と切り離そうとしてきたのではなかったか。
飢えや渇き、欲望、老い、性、病──身体とは他者との関係そのものであり、変化と不確かさに晒された生の現場である。その不安定さに人は耐えきれず、代わりに「魂」や「精神」を求め、そこにこそ真理があると信じた。共同主観に支えられたネットワークによる秩序とは、そうした身体の混沌に対する処方でもある。
ハラリの指摘する共同主観に支えられたネットワークによる秩序と、LLM(大規模言語モデル)の統計に支えられたアルゴリズムによる秩序──人間らしい言葉遣い──が同根であるような気がしてならない。共同主観に支えられたネットワークによる秩序が生み出してしまう虚構と、LLMが統計に支えられたアルゴリズムによる秩序(尤度)によって生成するハルシネーションは双子の片割れ同士ではないか。
生成AIは、ときにもっともらしい語りを提示し、身体を通じて得られる揺らぎや違和感、異質なものの手触りを削ぎ落としてしまう。それは、心地よいが平滑化された統計結果にすぎない。そうした語りは、事態の複雑さを減衰させ、判断の責任や関係の摩擦を回避させる。それは同時に、身体のように理解しがたく制御しきれない他者の現実を受け入れる回路を閉じてしまう。いや、閉じるからこそ人は安心し納得する。
整合された意味や秩序を欲する衝動に抗いながら、わたしたちはむしろ複雑で不可解な身体性に対して開かれた姿勢を保たなければならないのではないか。そのためには、理解不能なものに対して即答や制御ではなく、放下によって応じる態度が必要だ。あるいはネガティブ・ケイパビリティ、すなわち「答えのなさ」に耐える力こそが、現代の知性に問われている倫理なのだと思う。わたしが前回の記事(#56 答えなき時代の思考術)で訴えたかったことはここに通じている。
秩序のなさに耐える力がなければ、そもそも事態を複雑にしてしまう多様な価値観を伴う他者と共に生きることはできない。多様性は統一や調和ではなく、差異と衝突、翻訳不能性とともにある。だからこそ、わたしたちが構想すべきは、秩序や一貫性によって閉じられたネットワークではなく、ズレや混乱を許容する外に開かれたネットワークのはずだ。それは自己完結的なシステムではなく、異質なものに晒されつづける接触の場である。ネットワークとは本来、秩序ではなく接続であり、支配ではなく応答であるはずだ。
社会に虚構を求めておきながら、AIの幻想を危険視するわたしたちは、どちらにしろ、矛盾している。わかりやすさだけでどうやって考えることができるのか。
ずいぶん長くなってしまった。
テクノロジーと身体性をめぐるもうひとつの問い
最後に、テクノロジーと身体性の問題は、さらにもうひとつの問いをわたしに与えていることを付言しておきたい。
AIなどの先端テクノロジーを考えるときにいわれる、「メガネや車椅子だってテクノロジーじゃないか。テクノロジーは多くの人を救っている。AIによって救われる人もある」という話だ。ここ数回の議論のように、マイノリティの生きる選択肢となるテクノロジーという考えもできる。
しかし、それをカーツワイルのような身体の改造や身体機能の拡張と同じ延長線上で論じることができるのか。BMIのような侵襲性のテクノロジーと非侵襲性のそれとの違いをどう定義づけすればよいのか。
ハラリの論に従って、なおかつ宗教的な視点を失わずにいえば、カーツワイルのそれはユダヤ教や初期のキリスト教における身体を伴う信仰への回帰ではないか。その信仰はAIに向けられるものなのか。
どこまでもわからない。混乱のまま筆をおきたい。(了)