ジャーナリスト・服部桂氏に聞く
(1)言語の到達点としてのLLMと、そこから見えないもの

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聞き手 都築正明(IT批評編集部)
桐原永叔(IT批評編集長)

知を書き尽くそうとする文字言語の系譜と限界

現在はLLMをはじめとした生成AIブームといってよいと思いますが、服部さんからしてみると言語文化の1断面にすぎないという考えかたですか。

服部 実用面においては処理スピードはとても重要です。有限の時間しかない生物としての人間が、一生のうちにどれだけチョイスを持てるかに大いに関係するからです。生成AIはそうした言語ができる話を高速にいくつもこなしてくれ、われわれを豊かにしてくれます。人間が他の動物に先んじて進化できたのは言語のおかげで、この3,000年ぐらいの期間に書き言葉ができて、言葉が精緻化していくなかで書かれた知が印刷本で普及して体系化し、さまざまな学問分野が生まれ、そうした総体が教養や文明と考えられて来ました。しかしそうした世界で、なにがどの書物に書かれているかという知識に裏打ちされた学者の持つ権威は、いまではGoogle検索にとって代わられています。そこで私は、コンピュータとはこうした文明の基礎にある言葉というものの働きを、外部化して機械化したものに過ぎないと考えるようになりました。

私たちは言語を所与のものとして考えていますし、記述されたものを文化だと考えています。しかし人類史からみるとそれはごく短いスパンで用いられているものにすぎないし、コンピュータはそれを外部処理しているものにすぎない、ということですね。

服部 そうなんです。私たちは3歳ぐらいから言葉を話しますから、言語と文明との関係を無意識に当然のもののように思っていますが、人類史からみれば最近使われるようになったものにすぎず、生命史から考えると極めて限定されたものです。言語に似たものを用いる動物もいますが、人間だけがそれを精緻に精密にしてコンピュータという機械に処理させるまでになったのです。

私たちが文化やテクノロジーとして認識しているものに通底しているのが言語であるということですね。

服部 私自身が言葉に興味を抱いていた理由が、人間文化のキーとして言語がほぼすべての知の共通項であり最もユニバーサルな存在であることに魅かれたからだったことに気付いたのです。宗教は無文字時代にもありましたが、紀元前500年頃に論語や仏典が記されるようになり、1世紀にはキリスト教、7世紀にはイスラム教が加わって3大宗教が誕生して以降、言語でどこまで説明できるのかを追求してきたのが人間の文明だともいえます。ユダヤ教のカバラでは、神の創造した世界を1冊の本とみなしてこれを読み解こうとする神秘主義や数秘術が生まれました。しかしほとんどの人は文字の読み書きはできず、神の言葉や原理を知っているとされる人が魔法使いとして尊敬されているような時代がずっとつづきました。そしてやっと科学革命の時代を経て、『アナロジア』の冒頭で言及されているライプニッツは、中国の易経の陰陽論から着想して数字を0と1で表す2進法も提唱しました。また実際に、歯車によって四則演算を行う機械式の初のデジタル式計算機を構想しています。

17世紀に、現在のデジタルに至る発想がすでになされていたわけですね。

服部 そのライプニッツの後、18世紀には合理主義にもとづく啓蒙思想のもとでフランス革命が起こり、19世紀には産業革命が本格化し、知識が経済学や社会学、物理学や生理学などの学問分野に分化しました。19世紀後半にはそれらをすべてまとめて、体系化された言葉によって、学問の学問として総合的にすべての知を交換できるかということが考えられるようになりました。数学者のジョージ・ブールは論理代数を提唱し、近代論理学の祖ともされるパースやフレーゲに続いてバートランド・ラッセルは論理主義から記述理論を示し、その後、世界をすべて数学で記述できうるというヒルベルトのような論理主義の権化のような人も現れました。数学で記述して解答を求めるというのは、まさにプログラムの発想ですよね。言語学というのはもともと宗教と深くかかわっていたのですが、より科学的な見地から言語が注目されるようになり、ソシュールなどは言語の構造に着目する記号論を提唱しました。

抽象化した言語によって記号操作を行おうとしたわけですね。

服部 そうです。そうした言語至上主義を、そのまま機械に実装したのがコンピュータです。しかし言語的な数学論理は万能でもユニバーサルな存在でもなく、実のところでは、コンピュータの原理をつくった1人であるアラン・チューリングはある論理体系の中ではいつまでも解けない問題があることを証明してしまい、クルト・ゲーデルは無矛盾性が証明できないという不完全定理を唱えてしまいます。

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