言語の到達点としてのLLMと、そこから見えないもの
ジャーナリスト・服部桂氏に聞く(1)
桐原永叔(IT批評編集長)

2022年11月30日にOpenAIからChatGPTが公開されてから、明くる2023年は生成AIが大いに話題となった1年だった。テック業界では「AIの民主化」と言祝がれる一方、ホワイトカラーの職が失われるのではないかという「AI脅威論」も大いに話題となった。本特集では、多くのデジタル・テクノロジーの重要人物と親交を結び、国内に紹介してきたジャーナリスト服部桂氏を迎え、人類とテクノロジーという幅広い視座からデジタル・テクノロジーを眺望する。

服部 桂(はっとり かつら)
1951年生まれ。早稲田大学理工学部で修士取得後、1978年に朝日新聞社に入社。1984年にAT&T通信ベンチャーに出向。1987年から1989年まで、MITメディアラボ客員研究員。科学部記者や雑誌編集者を経て2016年に定年退職。関西大学客員教授。早稲田大学、女子美術大学、大阪市立大学などで非常勤講師を務める。著書に『人工生命の世界』(オーム社)、『マクルーハンはメッセージ メディアとテクノロジーの未来はどこへ向かうのか?』(イースト・プレス)、『VR原論 人とテクノロジーの新しいリアル』(翔泳社)他。訳書、監訳書に『デジタル・マクルーハン―情報の千年紀へ』、『ヴィクトリア朝時代のインターネット』、『チューリング』(以上、NTT出版)、『テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?』(みすず書房)、『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』(NHK出版)、『アナロジア AIの次に来るもの』(早川書房)、最新の訳書に『ホールアースの革命家 スチュアート・ブランドの数奇な人生』(草思社)。
目次
音楽と言葉、電子工学を架橋した青春時代
都築 正明(以下、――) まず、服部さんのライフヒストリーをお聞かせください。
服部 桂氏(以下、服部) 小学校から高等学校までは同じ国立校に通いました。とても自由な校風で、のびのびと過ごすことができました。中学校からは、東京オリンピックで注目を集めたこともあって、サッカー部に入りました。一方、天文研究会にも所属して、望遠鏡を作って天体観測をしたり、天体写真を撮影することにも凝っていました。当時は学生運動やベトナム反戦運動が盛んでしたから、フォークギターを手にPPM(ピーター・ポール&マリー)などのプロテストソングを歌ったりもしていました。
音楽については以前から素養があったのですか。
服部 3歳のころから高校までバイオリンを習っていました。また小学校は「カルミナ・ブラーナ」などの楽曲で有名なドイツの作曲家カール・オルフの提唱した「子供のための音楽教育」に基づいたクラスに入れられチェロを担当して、オルフ自身が来日した際にはNHKホールで演奏もしました。さらに高校ではオーケストラでバイオリンを弾いていました。
メディアに関心を持たれたのも、そのころですか。
服部 私がメディアにかかわることに大きく影響を与えたのは、高校生のときに映画を制作したことです。1968年にまず、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」に衝撃を受け、その後モントリオール万国博覧会でマクルーハンのメディア論をマルチ・スクリーンで映像化するという記事を読んで、自分でも新しい形の映画をつくりたいと思ったんです。ストーリーは、宇宙人が学校を乗っ取るというもので、ゴダールの「アルファヴィル」やイギリスの「プリズナーNo.6」という不条理SFドラマに影響を受けたものでした。それを2本の8ミリ映画と4枚のスチール写真で表現しました。その後は映画監督を目指そうと思い、パリの映画博物館の前に住んでいたこともあります。
高校卒業後は、どうされたのでしょう。
服部 実家が開業医だったので医者になるよう言われていたのですが、そこへの反発心がありました。医学部に向けた教育を受けていましたが医学部は受けずに、理系科目で受験できる早稲田大学理工学部に入学しました。子どものころに電子工作が楽しかったことから電子通信科に入ったものの、勉強はせずにジャズ研究会をはじめ音楽系のクラブを掛け持ちしていました。途中で勉強に飽いてしまい、休学して1年間ヨーロッパを放浪したりしていました。復学して4年次に卒業論文のテーマを万葉集に使われていた上代日本語の音韻研究にしました。奈良時代には日本語には文字がなく、漢字を充てた万葉仮名を使っていたのですが、そこでは母音「イ」「エ」「オ」にそれぞれ2種類の漢字が充てられています。母音が現在の5種類ではなく8種類あったということです。
現在はワ行におかれている「ヰ」「ヱ」「ヲ」にあたる音ですね。
服部 母音が8種類あって、それぞれ異なる発声が行われていたとすると、例えば子音をつけたカ行でも「キ」「ケ」「コ」が2種類ずつ存在し8つの発声があったと考えられます。こうした音韻学でいう甲類・乙類の区別や、離島に残っている音について文献を調べたりもしました。万葉集の歌をデータ化し、それをコンピュータで多変量解析して、その出現頻度や音ごとの近さを調べて、失われたとされる乙類の母音の性質に関する研究を卒業論文にまとめました。論文を国語学会に送って発表もし、指導教官から「それは理工学部で扱う話ではない」と言われたりもしましたけれど、どうにか卒業することができました。
どうして音韻に関心を持たれたのでしょう。
服部 音楽に関わっていたことが大きいのだと思います。オーケストラにもいましたし、ジャズをはじめさまざまなバンドにもいましたから。現代音楽を演奏するためにコンピュータを使うアルバイトもしました。さらにコンピュータを使って民族音楽を採譜したり自動的に作曲をして演奏する電子楽器もできないかと研究していました。
当時のシステム環境はどのようなものだったのでしょう。
服部 プログラムをパンチカードで処理してラインプリンタで出力する時代でした。プログラムを1本コンパイルして実行するのにも時間もお金もかかりましたが、そこでコンピュータの動作原理を知り、当時開発されたマイクロチップを使ったマイコンも作ったことから、現在のコンピュータやデジタルメディアの将来について考えられる基礎は学べたと思います。
卒業後は、どうされたのでしょう。
服部 理工学部でしたから、電機メーカーなどに就職するのが一般的な進路ですが、当時は石油ショックの影響ですんなり就職できないような状況で、会社員になるのも嫌だったので大学院に進みました。卒業後は何か一般の会社にはない雰囲気を感じたので朝日新聞社に入社して、さまざまなことに携わりつつ定年まで過ごすことになります。