アーティスト 草野絵美氏に聞く
第4回 共時性なき時代のノスタルジーのゆくえ

FEATUREおすすめ
聞き手 都築正明
IT批評編集部

Beeple(作家:マイケル・ジョセフ・ウィンケルマン)による歴史的高額取引を経てNFT市場が広がるなか、草野氏は生成AIを用いた作品で国際的に評価され、世界の美術館でも展示されるアーティストとなった。またノスタルジーについて深く考えるとともに、未知の時代への懐かしさや共通の記憶が失われゆく現代の感覚を作品に刻んでいく。そこには、情報過多の社会で記憶が上書きされていく実存的不安や、アルゴリズム時代の文化的断片をいかに保存し再構成するかという批評的視座が通底している。

草野 絵美(くさの えみ)

1990年、東京都生まれ。AIなどの新技術を取り入れ、ノスタルジア、ポップカルチャー、集合的記憶を主題に作品を制作。作品は、M+(香港)、サーチ・ギャラリー(ロンドン)、グラン・パレ・イマーシフ(パリ)、フランシスコ・カロリヌム美術館(リンツ)、金沢21世紀美術館など、世界20カ国以上の美術館やギャラリーで展示されているほか、Frieze、Untitled Art Miami、Kiafといった国際的なアートフェアにも参加している。2023年にはクリスティーズとグッチのコラボレーションオークションに参加し、2024年にはクリスティーズとUNHCRによるチャリティーオークションにも出品。2025年、世界経済フォーラムにより「ヤング・グローバル・リーダーズ」に選出された。高校時代から原宿でストリートファッションの写真を撮影し、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館(ロンドン)などで作品を発表。写真やファッションの経験を通じて、マスメディアが個人や社会のアイデンティティに与える影響を探求している。また、1980年代のJ-POPを現代的なSFの視点で再解釈する音楽ユニット「Satellite Young」の主宰兼リードシンガーとしても活動し、SXSWなどの国際的なイベントに出演。AIやデジタル技術を創作プロセスに取り入れ、これらを協働するパートナーとして位置づけ、過去と現在の対話を通じて現代社会を再考する作品を制作している。

目次

ブロックチェーンは次世代のインフラに

都築 正明(以下、――)草野さんは音楽活動からはじめてアーティスト活動に移行されました。SoundCloudをきっかけにデビューしているミュージシャンは以前から多くいましたが、NFTで作品を発表して評価されるアーティストが登場するのは、そこから数年経ってからのことです。

草野 絵美氏(以下、草野)SoundCloudやYouTubeと比較すると、NFT購入のハードルはまだ高いのだと思います。NFT人口そのものが少ないのではないかと思います。ブロックチェーン上に作品を載せてみようと考えていた人は2017年ごろから存在はしていました。ようやく日の目を浴びたのは、2021年にBeeple(作家:マイケル・ジョセフ・ウィンケルマン)の作品”The First 5000 Days”の高額取引があってからだと思います。2021年から2022年にかけてブームがあって、いまは落ち着いているのですが、私のようにNFT出身で美術館でも展示されるようになったアーティストは世界中に現れています。数千万円や数億円で取引される作品は非常に少なく、特に2022年や2021年のブームで取引された高額NFTのような作品は減ってはいますが、数万円で完売できるアーティストは増えてきています。世界中にそうしたアーティストがいますから、一般的になってくると私は信じています。

アーティストとしてギャラリーで作品を販売して生計を立てることが難しい現状からすると、希望の持てる話ですね。

草野 ブロックチェーンはこれからもっと普及すると考えています。いまウォレット取得してイーサを買って、デジタルアセットを購入するというのはみなさんあまりピンと来てないと思います。しかしアルファ世代いわれるMinecraftやROBLOXとかに夢中な子どもたちが消費の中心になってきたら、デジタルアセットにお金を遣うことは一般的になってきます。またAIが普及するようになればボットだらけになって、だれが本当の人間かがわからなくなります。そうなったときにインフラになるのがブロックチェーンだと思います。そうなるとiPhoneをはじめとするスマートフォンにもウォレットが搭載されるようになって、そこにマイナンバーカードが紐づくようになってきます。そういった世界観になれば、NFTそのものはもっと一般的になるのだと思います。いま生成AIアートは、ほとんどNFTから市場が生まれています。クリエイターの生活手段も、オンラインコミュニティやYouTubeのメンバーシップなど、以前よりは増えているとは思いますが、ファインアートの分野で自分で作品を発表することはNFTで大きく可能性が広がったと思います。

未知の時代へのノスタルジーと、未来の時代のノスタルジー

草野さんご自身は1990年代生まれのミレニアル世代にあたります。その草野さんがまだ生まれる前の1980年代にノスタルジーを感じることに深い関心をおぼえますし、人の感じるノスタルジーについても考えざるを得なくなります。たとえばTVで「となりのトトロ」が放映されると、昭和30年代を生きていない私たちや子どもも懐かしさをおぼえたりします。そう考えると、ノスタルジーはどこで区切られるものなのかが不思議にも感じられます。

草野 あらゆるタイプのノスタルジーがあると思います。自分たちが体験してないことにでさえ、ノスタルジーを感じることもあるかと思います。2000年に生まれたアメリカ人がシティポップを聞いて懐かしさを感じたりするように。ですから、おっしゃるとおり不思議な感覚だと思っています。本当に自分が体験した懐かしさとでいうと、みんなと共有できる懐かしさというのはこれから減ってくのではないかとも思います。先日、私と同年代を指す“平成一桁ガチババア”という言葉がX(旧:twitter)でバズっていたんです。その“平成一桁ガチババア”にはいっしょに盛り上がることのできる共通点があったり、世界中で共有できる「スターウォーズ」という老若男女が認識しているヒット映画があったり、雑誌に載っていた芸能人がいたりするのですが、今の若い子は全然芸能人を知らないし、全世界で一番見られているドラマは「イカゲーム」だと言われてますが、それは“ネット以降のマス文化”の特徴であり、“ネット以前”のマス文化とは「共同記憶」と「同時熱狂」という本質の違いがあります。ドレイクのように超メジャーなものはありますが、アルゴリズムによって届かない人には届かないので昔のマイケル・ジャクソンほど有名な人はいません。音楽のヒットチャートをみていても、トップにはCDが売れていたころから売れていた人か、テレビがまだ元気だったころにディズニーチャンネルで子役をしていた人の曲しかないんですよ。10年後や20年後になったら、もう全員違うtiktokerをフォローしてるから、共通で懐かしいと思えるようなものはなくなるんじゃないかという気がしています。少し前にY2Kファッションが流行しましたが、2000年代のエステティックは、1980年代や90年代に比べて弱いんです。そこから2010年以降に流行ったものを振り返ってみると、グラディエーターサンダルも一瞬で終わりましたし、カンカン帽も同じくすぐ流行ではなくなりました。共通点として時代を振り返る懐かしさは失われるんじゃないかという気がします。一方で「となりのトトロ」のように体験してないれけど懐かしさをおぼえる感覚は、人生の短さを悟る瞬間なのかなと思うんです。

後者について詳しく教えてください。

草野 たとえば1991年にハイビジョン放送がはじまったときのNHKの記録映像などがYouTubeにアップされています。商店街の様子や小学生の様子がとても鮮明に映し出されていて、そこでは子どもの動きなどは現在といっしょなのですが、お母さんのメイクが違ったりします。そういうのをみると「ここに写ってる子どもいまごろ45歳なのか」「ここに映っているおじいちゃん、おばあちゃんはもう生きていないのか」「尖った若者たちが映っているけれど、いまは丸くなって家庭を持っておじさん、おばさんになってるんだろうな」と考えたりします。そこに映っているビルや空の色は変わっていませんから、そういうところに人間の命の短さを感じるのかもしれないと思います。

日本でそれを発信しているのは「サザエさん」かもしれません。自分が波平さんと同世代だと思うと、感慨深いですから。

草野 アナゴさんが27歳ですから。キャラクターは歳をとらず、その時代に留まることができますからね。

普遍的なものへの憧憬と、あえて普遍性を持ち込むことの危うさ

フランス人の映画監督フランソワ・トリュフォーが、小津安二郎の映画を見て「ここに世界の家族がいる」といって感動したエピソードがあります。座敷の上に座布団を敷いて浴衣を着て座っていても世界の家族がみえるということを1970年代のトリュフォーが言っていたことを考えると、ノスタルジーというのは経験とは異なる普遍性から発せられるもので、現代のアメリカ人がシティポップを懐かしいと思う感性と、トリュフォーが小津映画を観て家族を思い出すことには共通するものがあるのかもしれません。

草野 おそらく、普遍的な人生の短さや若さの美しさのようなものがあるのでしょうね。まったく異なる文化にあるものをみて、自分が子どものころを思い出したりすることがありますから。1980年代の“竹の子族”のイキってる若者たちの姿をみて、これがカッコよかったのか、私がいまカッコいいと思ってるものや、高校生の時にカッコいいと思ってたものも、時代を隔ててみるとどうなんだろうと考えたりもします。時代は全然違っても、自分が目立って“映える”ように、また大人たちに反抗するためにこのようなファッションに身を包んでいたということを考えて、その追体験ができたりもします。

ノスタルジーには怖さもあって、例えばトランプのキャッチフレーズMAGA(Make America Great Again)の指し示すアメリカというのは、反実仮想のアメリカだったり、未体験のアメリカだったりします。日本の保守がいう“古き良き日本”も、現実の私たちは暮らしていけない環境でしょうし。「なかったもの探し」のもとにものごとが進んでいくと、やはり極端な方向に進みかねない気がします。

草野 時代感覚が分かりづらくなっているのかもしれません。いまもYouTubeなどで出てきた動画が5年前のものだったりしますし、若い子が、アルゴリズム検索で昔のミュージックビデオとかを見つけて新鮮に受け取ったりすることがあると思います。トレンドのようなものがなくなったときどうなるかというのは、気になるところです。

後期近代を“リキッド・モダニティ”と評した社会学者ジグムント・バウマンは遺作となった『退行の時代を生きる』(青土社)で現代を“レトロトピア(過去志向の理想郷)”の時代と評して、美化された幻想的共同体に退行しつつあるのではないかと警告しています。また加速主義の議論に注目していた批評家のマーク・フィッシャーは、未来への想像力を失い、リヴァイアサン成立前の、万人が万人と争う自然状態への志向が高まる未来を憂慮していました。そうしたノスタルジアは、草野さんの考えるノスタルジーとは正反対のものになりますよね。

草野 そうですね。私は都市以前のものにまったく興味がありませんから。子どものころは「ロード・オブ・ザ・リング」にはハマりませんでした。「ハリーポッター」は文明的なところがみえるので、ちょっと面白く感じましたが、それよりは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のほうが好きでしたし。

そうしたリヴァイアサン以前のことを想起したのが、人々がデータのなかを彷徨い歩くディストピアを描いた草野さんの作品“Data Pilgrim”でした。

草野 陰謀論がもっと広がったらどうしようということも考えますし、インフラとしてのブロックチェーンも、もっと普及してほしいですし。AIに対するリテラシーも、高めていかなければならないと思います。いまはすべての情報が速すぎて、コンテンツも増えすぎて、アルゴリズムが機能不全を起こしそうで、なにが起きてるのかわからない恐ろしさをおぼえます。ジョージ・オーウェルの『一九八四』(講談社)などの昔のSFでは、情報を制限して統制するスタイルが描かれていましたが、いまは情報を増やしすぎて、世の中のスピードもSNSのタイムラインと同じぐらいのスピードで更新されていくことの不安が大きいです。2024年の大統領選中にトランプが銃撃されて耳を負傷した事件も、もし1990年代に起きていたら歴史的にアイコニックな出来事として長期間にわたって報じられて記憶されていたはずですが、それを忘れて上書きされるほどの大きなことが次々に起きています。SNSのタイムラインも、炎上系だったり、ビューを稼いだりするようなものばかりが表示されるようになって、twitterもイーロン・マスクが買収してXになってからはサービス自体も変わりましたし、無数にAIボットが増えていますから。私の英語版のXには、毎秒のように私のファンを名乗るアカウントからのDMが届きますが、大抵はボットアカウントで、最終的にはなにかをクリックさせようとするものですから。

Data Pilgrim(リンク先に画像あり)