東北大学名誉教授 野家啓一氏に聞く
(1)工業化への反省と、テクノロジーに求められる倫理

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聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

日本の大学に工学部が置かれた意味

桐原 数学や自然科学の知見を文系論者が扱うことに対する「サイエンス・ウォーズ」のような反発は当時からあったのでしょうか。

野家 私が科学史・科学哲学をはじめたころは、そうした自然科学系や理工系からの反発はまったくありませんでした。そのころの科学史や科学哲学は、理工系の研究者からは定年退官した教授たちの趣味にすぎないと思われていました。科学史・科学哲学が本格的な学問として認められはじめたのは、広重徹さんが英語で国際的に通用する論文を書いたり、廣松渉さんが哲学からのアプローチで『相対性理論の哲学』を出されたりしてからです。その後、大森学派では私の兄弟子に当たる村上陽一郎さんなどが登場して、科学史・科学哲学が学問の1分野として認められました。海外でも同じように、今まで軽視していた科学史・科学哲学が自分たちの学問を批判することに腹を立てた自然科学系の学者がバックラッシュを起こしたのがソーカル事件の顛末だと思います。

桐原 数学科の佐々木先生が思想誌に論文を発表したのは珍しいことだったんですよね。

野家 きわめて例外的でした。佐々木さんは「東北大学新聞」に科学論的な論文を寄稿していました。それが廣松渉さんの目に留まって「思想」編集部に紹介されたのだと思います。佐々木さんは第四インターナショナルという新左翼の運動家でもあったので、廣松渉さんとも相性がよかったのかもしれません。

桐原 トロツキズムだったんですね。理系学生の論文が思想誌に掲載されるのが例外だったとしても、当時の学生の間には社会性や政治的な意識を持たなければならないという感覚はあったのでしょうか。

野家 それはありました。私が大学に入った1967年は、授業が休校になるとすぐにクラス討論がはじまって、それが終わるとデモに行くというような生活で、今とはまったく違う騒然とした雰囲気でした。理学部の学生も、物理学者・武谷三男の科学技術論『弁証法の諸問題』(勁草書房)の読書会を催して議論をしたりしました。

桐原 工学部や理学部が日本のアカデミズムのヒエラルキーで上位に置かれていたことは、明治維新後の日本が世界に追いつくために富国強兵施策として工学に力を入れてきたことの影響だと言われます。

野家 もともと工学部は工部大学校として、フランスのエコール・ポリテクニーク(理工科学校)のように大学とは別に設置されていました。それが帝国大学令のもとで今の東京大学が再編成されるときに、工部大学校を工学部として大学に組み込んだのです。これはユニバーシティ(総合大学)のなかに工学部を設置した世界で最初の例です。日本は明治維新以降、急速に科学技術を導入するために、科学と技術とを同列のものとして導入しました。ヨーロッパやアメリカでは、技術は理論より一段低いものとされていたので、テクノロジーはユニバーシティ内には設置されませんでした。アメリカでもハーバード大学とは別にMITを設置しています。ヨーロッパでは、フランスのエコール・ポリテクニークやドイツのTH(Technische Hochschule)などは大学の外につくられていて、学位授与権は持ちませんでした。日本だけはユニバーシティのなかに工学部を設けて工学博士を輩出したので、海外のアカデミズムは驚きました。「サイエンス」誌でも、ヨーロッパは日本の先進事例に学ぶべきだというエッセイが掲載されたほどです。日本では「科学技術」の1語で表されますが、英語では必ず「サイエンス&テクノロジー」として科学と技術とは別個のものとして考えます。最近は「テクノサイエンス」という言葉も使われるようになりましたが、まだ正式な英語としては認められていません。

※ソーカル事件:1996年、思想誌「ソーシャル・テキスト」に数理物理学者アラン・ソーカルによる寄稿論文「境界線を侵犯すること――量子引力の変形解釈学へ 向けて――」が掲載された。しかし後にソーカル自身が、この論文がフランスの思想家の言葉や物理数学のでたらめなパロディであることを明かし、当時のポスト・モダン系知識人の衒学趣味が暴露されることになった。

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