「科学なし/だけ問題」の時代に、前提条件を疑うということ
東北大学名誉教授 野家啓一氏に聞く(2)

FEATUREおすすめ
聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

明治維新後、富国強兵策を国是とした日本において、その科学研究は工学に偏重した。第2回では、われわれが直面している科学だけでは答えきれないトランス・サイエンス的な課題を論じつつ、技術至上主義の陥穽を免れるための態度に話がおよんだ。

野家啓一

野家 啓一(のえ けいいち)

東北大学名誉教授。日本哲学会元会長。専攻は哲学、科学基礎論。近代科学の成立と展開のプロセスを、科学方法論の変遷や理論転換の構造などに焦点を合わせて研究している。また、フッサールの現象学とウィトゲンシュタインの後期哲学との方法的対話を試みている。1949年仙台生まれ。東北大学理学部物理学科卒業。東京大学大学院科学史・科学基礎論博士課程中退。南山大学専任講師、プリンストン大学客員研究員、東北大学文学部教授・理事副学長を経て現職。『言語行為の現象学』『無根拠からの出発』(以上、勁草書房)、『物語の哲学』(岩波現代文庫)、『科学の解釈学』(講談社学術文庫)、『パラダイムとは何か クーンの科学史革命』(講談社学術文庫)『科学哲学への招待』(ちくま学芸文庫)、『歴史を哲学する』(岩波現代文庫)など、著書多数。1994年第20回山崎賞受賞。2019年第4回西川徹郎文学館賞受賞。

目次

基礎科学軽視は明治以来変わらず

桐原 世界的に近代化と自然科学化はほぼイコールだったのに、近代を受け入れた明治維新以降の日本が特に工学を重視したのはなぜでしょう。

野家 当時は欧米に追いつけ追い越せという殖産興業がスローガンとして掲げられていましたし、富国強兵や軍備の増強が喫緊の課題になっていました。その目標を果たすためには、理学部で原理を追求するよりも、工学部に力を入れて技術開発を進めるほうが手っ取り早いという政策意図があったのだと思います。先ほど話題に上がった山本義隆さんの著作『近代日本一五〇年』(岩波新書)では、明治維新からの150年間は工学部主導で技術開発を至上命題にしてきたことや、それに伴う大学教育の歪みもについて書かれています。

桐原 第二次産業革命以降、技術先進国に追いつこうとしたドイツも工学重視の発想でサイエンスに取り組んできた印象があります。

野家 ドイツも欧米では科学技術に関して後進国でしたから、日本と同じ状況にあったと思います。ドイツは日本よりも早く技術開発を進めていて、クルップ社などの鉄鋼や重工業中心の企業が誕生しています。日本の明治維新は、ドイツよりもさらに一歩遅れて技術開発を行ったことになりますね。また、ドイツはカントやヘーゲルを生んだ哲学の国でもありますから、基礎的な学問の重要性も認識されていました。ですから鉄鋼業をはじめ工学系の学問や技術開発に力を入れるとともに、それを支える基礎科学や基礎研究も同時に行われました。地勢的にフランスやベルギー、イギリスなどの先行事例を取り入れやすかったこともあります。日本の場合はドイツよりもさらに遅れた時点からヨーロッパを見習いはじめましたし、地勢的にもかなり離れていますから、手っ取り早く殖産興業や富国強兵に直結する分野に力を入れました。明治時代の岩倉使節団がヨーロッパやアメリカを視察した記録『米欧回覧実記』を読んでみても、それが伺えます。たとえばイギリスに行った使節はオックスフォード大学やケンブリッジ大学の近くを訪問しても、近隣の工場や鉄工所は視察しているものの大学で基礎科学の重要性を学んだりした記述はありません。このことから、使節団の興味はもっぱら技術の吸収にあって理論には関心を示していなかったことが見て取れます。彼らがそうした見聞を持ち帰り、それが日本の政策に適用されたわけですから、大学でも技術開発に直結する学問が優先されたのだろうと思います。

桐原 当時の日本の大学教育にはリベラルアーツの需要はなかったのでしょうか。

野家 日本では、江戸時代の寺子屋で学ばれたような儒学がリベラルアーツの役割を果たしてきたのだろうと思います。そうした儒学的なリベラルアーツの伝統は、江戸時代で途切れてしまって、明治時代には受け継がれませんでした。明治時代は福沢諭吉を筆頭に儒学を排斥して実学を重視する趨勢でした。儒学や和歌なんて役に立たない、それより生活に役立つ読み書きそろばんを学びなさいというのが『学問のすゝめ』の主旨ですから。そういった意味では、リベラルアーツの役割を果たしてきた学問が明治時代以降にないがしろにされてきという見方もできます。

桐原 明治維新後の日本の科学や技術への取り組み方を伺っていると、今の中国にも似ているように思えます。基礎理論は先行している国から取り入れて、応用のバリエーションや尖鋭性ばかりを追求すると、倫理観や哲学を欠いた科学や技術が登場してしまうように思えます。

野家 その通りだと思います。1980年代に日米貿易摩擦がピークだったころ、「基礎科学タダ乗り」論という批判がありました。日本は欧米の基礎科学の上澄みだけをすくっているという批判が欧米から強く投げかけられたのです。当時の日本はその通りだったと思いますが、現在はノーベル賞受賞者の数も欧米と肩を並べるほどになりましたし、未だにそう言われるのは偏狭な見方だとは思います。ただ日本の科学技術予算をみると、基礎科学に割り当てられている額は極端に少なく、振興予算とは到底いえない状況です。安倍政権のころにはイノベーションという言葉がさかんに用いられました。しかしイノベーションというのはまったく新しい技術開発とそれに伴う社会システムの組み換えのことですから、基礎科学の地盤がなければ発展し得ません。その意味では、日本人の科学技術についての認識は明治以来変わっていないとも考えられます。

桐原 日本人ノーベル賞受賞者の多くが基礎研究の重要性を訴えていますね。

野家 その通りですが、防衛費に比べて研究予算は思うように増えていません。ゲノム編集の問題が指摘されて科学において倫理や哲学が必要だということが、日本でもようやく自覚されるようになりました。アメリカでは1970年代から生命倫理や医療倫理の研究が盛んになったのですが、日本では21世紀になってから慌てて後追いをしている状況です。科学史・科学哲学には、社会や政治、経済、文化と科学技術のかかわりを考えるSTS(Science, technology and society:科学技術社会論)という分野があります。こちらも日本で「科学技術社会論学会」が設立されたのはかなり遅れて2001年になってからのことです。残念ながら倫理や哲学の面でも、日本は欧米の後追いを続けています。

1 2 3