量子超越を可能にしたエンジニアリング視点
大阪大学大学院教授・藤井啓祐氏に聞く(1)

昨年10月のノーベル物理学賞は、量子情報科学という新しい分野の開拓につながる貢献をした量子力学の研究者が受賞した。期待が高まる量子コンピューターだが、その現在地と将来について、日本の量子情報科学の第一人者である藤井啓祐氏に聞いた。第1回は、2019年にGoogleが成し遂げた「量子超越」の意義について伺った。
上の写真は小規模な量子コンピューターを高速にシミュレーションするための計

藤井 啓祐(ふじい けいすけ)
大阪大学大学院基礎工学研究科システム創成専攻教授。大阪大学量子情報・量子生命研究センター副センター長。
2011年3月京都大学大学院工学研究科博士課程修了。博士(工学)。理化学研究所量子コンピュータ研究センター量子計算理論研究チームチームリーダー、東京大学工学系研究科物理工学専攻客員教授、情報処理推進機構(IPA)未踏ターゲット事業プログラムマネージャー、量子技術の普及のための一般社団法人 Quantum Research Institute 理事を兼任。量子コンピュータのソフトウェアベンチャー、株式会社QunaSys、最高技術顧問。
専門分野は量子情報、量子コンピューティング。特に、量子誤り訂正、誤り耐性量子計算、測定型量子計算、量子計算複雑性、量子機械学習。著書に『驚異の量子コンピュータ:宇宙最強マシンへの挑戦』(岩波科学ライブラリー) など。
目次
サイエンスとテクノロジーの量子世界
IT批評・桐原永叔(以下、桐原) もともと藤井先生が量子コンピューターに興味を持たれるようになったのはどういったきっかけからでしょうか。
藤井啓祐氏(以下、藤井) 1980年代ですが、98011というコンピューターがなぜか家にあり、それで子供の頃はゲームをしていました。とはいえ、特にコンピューターに対して思い入れがあったわけではなく、なんとなくものづくりやエンジニア的なことをしたいという理由で京都大学の工学部に進みました。本当は「マイクロマシン」と呼ばれる超小型機械をつくりたいと思って物理工学科に行ったのですが、勉強しているうちに具体的に目に見える世界の応用に興味を失ってしまって、数学とか物理とか概念的な世界に興味を感じるようになりました。その頃にちょうど量子力学の授業があり、それではまっていったという感じです。
桐原 目で見ることができない量子の世界にどういった興味、関心があったんでしょうか。
藤井 量子力学は概念的な世界で、直接目で見えないミクロな世界なので、そこを支配しているルールを信じるか否かみたいな感じになります。一方でそれを記述する数式はすごくシンプルです。大学の1年生で習う線形代数で世の中のさまざまな現象を記述することができる。量子力学自体は複雑でしかも不思議な現象なのですが、その背景にある数学はすごくシンプルで美しい。そこに強烈に惹かれました。
桐原 そこから、量子力学からまた一転して情報工学の研究に進まれたのはどういう理由があったのですか。
藤井 量子力学はすごく好きなのですが、かといって、基礎物理を究めようという感じではありませんでした。もともとものづくりをしたいという指向が強かったので、量子力学を工学的に応用したいと考えていました。究極の物理法則である量子力学を使って、工学的に応用するテーマを探していたときに量子コンピューターに出会いました。具体的には、雑誌の「別冊日経サイエンス」で量子情報の特集をやっていて、そこに書いてあることにピンときたのです。何が書かれていたかというと、量子力学のルールは非常にシンプルであると。ある意味オセロみたいなものです。オセロって、ゲームのルールはすこぶるシンプルですよね。黒と黒で白が挟まれたらひっくり返って黒になる。おそらく初めて見た人でも、プレーしている人をしばらく見ていれば、どういうルールで動いているのかよく分かるはずです。量子力学も同様です。不思議ではあるのですが、数式で記述されたルールはすごくシンプルです。
桐原 すべてが数式で表され、曖昧なところがない──。
藤井 すごく簡単なベクトルと行列の世界です。こんな複雑なわれわれの世界を記述している基礎的な物理法則がベクトルと行列だけで解けてしまう。一方で、シンプルなルールを理解したことは、量子力学の世界を理解しつくしたことにはなりません。たとえばオセロのルールを知っている人がオセロの強いプレーヤーかといえば、そうとは限らないですよね。オセロには定石があって早い段階で隅を取られたら駄目とか、隅の近くに打つと隅を取られるので駄目とか、相手を囲わせるように内側を打っていったほうがいいとか、そういう深い理解があるわけです。シンプルなルールからつくられる複雑な世界の定石です。量子情報科学や量子コンピューターという分野は、そういうシンプルな数式で表される量子力学から生まれる複雑な現象世界の定石をつくる分野であるということが書いてあったんです。それを読んで、もうこの分野に進むしかないと思ったんですね。私自身ゲーム好きですし、何かを攻略するというのが好きなんです。何かの原理を発見するというよりは、その原理を受け入れたうえでそこから攻略法を考えたり、定石を見つけたりという方向が自分には合っているなと感じていました。それが学部3年生ぐらいの頃です。
桐原 サイエンスというよりテクノロジーとして量子に関心を持たれたというイメージでしょうか。
藤井 そうですね。サイエンスだけではないという意味で、サイエンス&テクノロジーをやっている感覚です。量子コンピューターとか量子情報の分野、量子技術の分野というのは、量子力学というシンプルなルールから生まれてくる高度で複雑な世界を、よりよく理解するとかよりよく整理するとかよりよく使いこなすことを目的とした研究であると理解しています。