AIが加速する時代にこそ「科学を俯瞰する哲学的視点」を
東北大学総長特命教授 野家啓一氏に聞く(3)

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聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

テクノロジーの進化は不可逆的だからこそ、研究には倫理的・法的・社会的問題への配慮が欠かせない。最終回では、科学と哲学との双方が歩み寄り、私たちの社会生活に寄与する科学のありかたを探る道筋が示される。また野家氏が強調する人間の主体性やクリエイティビティについても語られた。

野家啓一

野家 啓一(のえ けいいち)

東北大学名誉教授。日本哲学会元会長。専攻は哲学、科学基礎論。近代科学の成立と展開のプロセスを、科学方法論の変遷や理論転換の構造などに焦点を合わせて研究している。また、フッサールの現象学とウィトゲンシュタインの後期哲学との方法的対話を試みている。1949年仙台生まれ。東北大学理学部物理学科卒業。東京大学大学院科学史・科学基礎論博士課程中退。南山大学専任講師、プリンストン大学客員研究員、東北大学文学部教授・理事副学長を経て現職。『言語行為の現象学』『無根拠からの出発』(以上、勁草書房)、『物語の哲学』(岩波現代文庫)、『科学の解釈学』(講談社学術文庫)、『パラダイムとは何か クーンの科学史革命』(講談社学術文庫)『科学哲学への招待』(ちくま学芸文庫)、『歴史を哲学する』(岩波現代文庫)など、著書多数。1994年第20回山崎賞受賞。2019年第4回西川徹郎文学館賞受賞。

目次

(倫理的・法的・社会的課題)の重要性

桐原 物理学者のロジャー・ペンローズの『心は量子で語れるか』(中村和幸訳/講談社ブルーブックス)の後半で、かつての盟友であったスティーヴン・ホーキングがペンローズの主張がプラトン主義的な統一理論だとして、実証主義の立場から否定しました。人工知能をめぐるシンギュラリティについては少し落ち着いてきていましたが、ChatGPTが登場して議論が再燃してきそうです。いずれ人間を超える人工物が出てくることをみんな信じていますし、人工生命が生まれることも信じている節があります。ペンローズの量子脳理論に限らず、生命の秘密を解き明かすたった1つのルールの存在を信じている学者も多くいると思いますが、先生はどうお考えですか。

野家 2045年に到来するシンギュラリティによって、私たちの職業の多くがAIに取って代わられるという言説が飛び交っていました。AIの能力が次第に高くなり、人間の能力の一部が代替されることはあり得るかもしれません。ただし、私は全面的に人間が必要なくなったり、今の職業が一夜にしてなくなったりということは起こり得ないと考えています。AIにしても機械なわけですから、それをどう使うか、どう理解するかは、少なくとも半分は人間の手に委ねられているわけです。その人間の主体性のところをしっかり押さえておくことが大切です。iPS細胞は創薬や再生医療などさまざまに応用できますが、山中伸弥先生は京都大学のiPS細胞研究所に上廣倫理研究部門という部署を設置して、生命科学の研究に欠かせないELSI(Ethical, Legal and Social Issues:倫理的・法的・社会的課題)を検討しています。アメリカではヒトゲノム計画以降、日本の科学研究費にあたる外部研究予算の少なくとも5%をELSIの研究に振り分けることになっています。日本では、生命科学分野では次第にそのような動きが出てきていますが、私は今後コンピューター・サイエンス分野にもELSIの検討部門を設置する必要があると考えています。

桐原 ゲノムをはじめ、人体に直接かかわる医学や生理学の部分では倫理面に非常に敏感な一方、ITやAIなどのテクノロジー寄りの分野では倫理観が薄くなる傾向があるように思います。

野家 それは明確にありますね。生命科学の場合は人間の生死と密接にかかわっていることが重要なポイントですが、AIなどの工学技術の場合には、それが人々に意識されていません。しかし、私たちはそうした技術に目に見えないレベルで取り込まれています。ですから今のうちに生成型AIなどの研究にはELSI部門の予算を付けて、どのような社会ができあがるのか、どのような社会へと向かうべきかという検討をきちんと行うべきでしょう。ChatGPTを問題にするのなら、研究を一時停止するという提言もなされましたが、著作権の問題をはじめ国際的なルール作りへの取り組みが歯止めや防御策になるのだと思います。

桐原 おっしゃる通りだと思います。テクノロジーに携わる人ほど、先生がおっしゃったトランス・サイエンスや「離見の見」のように、自分のしている研究を俯瞰的に見て顧みることが必要でしょうね。

野家 そう思います。日本では残念ながら、大学の哲学科にもそうした研究をする学科ができていません。むしろ専門的な知識を持つ理工系の学部にそうした部門を設けて、現状の事態をはっきり明確に理解したうえで、それがどういう社会的影響を及ぼすのか、またそれに対してどう対処すべきかということを共に学び、教えるべきだと思います。

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