玉川大学文学部名誉教授 岡本裕一朗氏に聞く
(1)ポスト・モダンからポスト・ヒューマニズムへ
フィジカルを軽視してきた人工知能と哲学
桐原 カーツワイルに限らず、多くの研究者の興味が生命としての人間というより知能としての人間に偏っているように思います。知能が普遍性や永遠性を持っていて、それさえ人工的につくれたら生命のほうも普遍性や永遠性をもつという誤解がある気がします。
岡本 その通りだと思います。哲学者の思考実験でも、脳だけを取り出してそれをプールの中に漬けて保存するような発想が数多くあります。ある意味ではデカルトの心身二元論以来の西洋哲学の伝統かもしれません。肉体を持たない精神としての人間を究極的な形態として捉える、ということです。それが神性と結びつくイメージもありますから。20 世紀に現象学として身体論が流行した時期もありましたが、ポスト・ヒューマニズムとして語られるときには、やはり知性的なものが中心になります。
桐原 一方で、たとえば認識論を批判したリチャード・ローティのネオ・プラグマティズムのように、身体やテクノロジーといったフィジカルな事物を見直す思想というのも行われていますよね。「IT批評」でも身体性については何度か議論しています。
岡本 21 世紀になってテクノロジーが重要になってきて、哲学においても精神的ではないものをテーマに据える側面はあると思います。その意味ではテクノロジーに限らず、物質や身体をどう位置づけるかは哲学上の大きな問題になるかもしれません。
桐原 テクノロジーの追求は利潤の追求と結びつきやすく資本主義の要請が働きやすいです。どちらかというと、唯物論的な思想と親和性が高くなりますよね。
岡本 いま実際に哲学の分野では、物質主義や唯物論の研究が盛り上がっています。テクノロジー全盛の一方で、唯物論的な哲学の可能性が求められています。
桐原 いま実在論がまた注目を集めていますね。
岡本 そうですね。20 世紀哲学は反実在論として、言語による表象を中心に思想を重ねてきました。しかし、言語を伝えるにあたってもメディア技術が必要となりましたし、言語を語るのは人間の身体であり諸器官であることから、具体的な物質を中心に考えるというのが、21 世紀の基本的な方向になってきたと考えられます。そこで実在する物や身体を含めた物質的な次元について問いなおすのは、哲学としては比較的自然な流れかもしれません。
桐原 私自身はポストモダニズムの洗礼を浴びた、いわゆる「ニューアカ(ニューアカデミズム)」世代です。私たちの若いころはサルトルや実存主義といえば、すでに過去の人、もっといえば古臭いものという感じだったのを覚えています。
岡本 私もまさに同じ時代にいた自覚があるので、よくわかります。
桐原 私たちは、ニューアカやポスト構造主義に影響を受けて、文化や社会情勢を冷めて見るという態度に慣らされてきました。そのなかで、もう一度、本気で人間を考えなおそうというマルクス・カブリエルがフィーチャーされる理由は、わかる気がします。ガブリエル本人は、冷めた現状にたいして情熱をもった言説を持ち込もうとしているように感じられます。
岡本 講義で21世紀哲学の話をしていたとき、突然「サルトルは終わった人だと聞きましたが、違うんですか」という質問を受けたことがあります。サルトルが結構、若い人にウケるらしいのです。その一方、パソコンやスマートフォンを手に育った世代なのに、サルトルや実存主義に惹かれるというのが、少し意外にも感じられます。
桐原 チョムスキーとフーコーがフランスのテレビで論争したことがありますよね。チョムスキーは人間の本性を先天的な部分から論じ、フーコーはそれを後天的なものとして論じていたと記憶しています。いま、「親ガチャ」を嘆く若い世代においては、チョムスキーのいうように生得的な本性に意味があると言われるほうが救われるように思えるだろうと推測できます。そのほうがかえって救いがある。後天的に本性を掴めるのなら、それは自助努力や自己責任を問われるわけですから。
岡本 そうですね。それまでの世代は、かつてのサルトルのアンガージュマン(政治参加)のように思想に基づいて社会を変えようとする態度には、非常に冷笑的でしたが、21 世紀になってムードが変わってきました。最近になって、サルトルの研究書や入門書も多く出版されています。