ポスト・モダンからポスト・ヒューマニズムへ
玉川大学文学部名誉教授 岡本裕一朗氏に聞く(1)

人間中心主義としてのヒューマニズムは、近代以降、私たちの歴史に大きな影響をもちながら前世紀のポスト・モダン的文化状況のなかでゆるぎ始めた。人間の終焉さえも感じさせる今世紀において“ポスト・ヒューマニズム”は単なる思潮を示すものではなくなってきている。テクノロジーの進化によって実体としての「ポスト・ヒューマン」の誕生が現実味を帯びてきたからだ。「ポスト・ヒューマン的展開」を説く岡本裕一朗氏に訊いた。

岡本 裕一朗(おかもと ゆういちろう)
玉川大学文学部名誉教授
1954年福岡県生まれ。九州大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修了。博士(文学)。九州大学助手、玉川大学文学部教授を経て、2019年より現職。西洋近現代哲学を専門としつつ学際的な研究を行う。現代の哲学者の思想を紹介した『いま世界の哲学者が考えていること』(ダイヤモンド社、2016)はベストセラーとなった。『モノ・サピエンス 物質化・単一化していく人類』(光文社新書、2006)、『フランス現代思想史 構造主義からデリダ以後へ』(中公新書、2015)、『ネオ・プラグマティズムとは何か ポスト分析哲学の新展開』(ナカニシヤ出版、2012)、『思考実験 世界と哲学をつなぐ75問』(ちくま新書、2013)、『世界を知るための哲学的思考実験』(朝日新聞出版、2019)、『哲学100の基本』(東洋経済新報社、2023)など著書多数。
目次
バイオテクノロジーが導いたポスト・ヒューマンのリアリティ
桐原永叔(以下、桐原) 岡本先生は、21 世紀にテクノロジーが人間を凌駕することを指摘したうえで、これまでの人間中心の思想を相対化するポスト・ヒューマニズムの思想を論じています。現在の思想状況についてどのような見取り図を描いていらっしゃるのでしょうか。
岡本裕一朗氏(以下、岡本) 思想状況にヒューマニズム/ポスト・ヒューマニズムいう図式がもたらされたのは、21世紀になってからのことだと思います。人間というテーマについて、19 世紀にニーチェが「超人」という概念を持ってきたり、20 世紀にハイデガーやフーコーが「人間の終焉」を論じたりしていたときは、まだ人間以降になにが到来するのかという実像が見えていなかったのだと思います。ニーチェのいう「超人」というのは、漠然とした進化論が想定されたうえで、サルから人間、その延長上に超人がくる、というようなイメージなんです。
桐原 ニーチェのいった「神の死」や「超人」というのはどういったイメージでとらえたらいいんでしょうか。
岡本 ニーチェがどこまで本気で「超人」のイメージを持っていたのかは疑問です。20 世紀になってからのヒューマニズム批判の文脈でニーチェの言説が用いられたことも多くなりました。20 世紀に「神の死」や「超人」がよく言われるようになったのは、「人間の超克」や「人間の終焉」が語られるようになっていたからです。
桐原 フーコーは「人間の死」ということを言いましたが、これも人間ではなく人間中心主義の終焉のニュアンスに近いものだと考えています。
岡本 人間以降の存在が、現実的な話題として俎上にのぼったのは、まず分子生物学の分野からだったと思います。1970 年代から、遺伝子を組み換えることがはじまったときに、その延長として、人間の遺伝子を操作するという発想が生まれました。当初の遺伝子工学は、人間に適用できるほどの精度はありませんでしたが、21 世紀になるとゲノム編集ができるレベルになってきます。確率も高く安全性も確保されるようになると、ヒトゲノムの編集も現実的になってきます。そうすると、遺伝子編集がなされた人間という存在を想定できるようになる。そのときに、なにをもって人間として定義するかということが改めて問い直されるようになったんです。
桐原 生物としての人間も、いずれ特権的なものではなくなる可能性がありますね。
岡本 20 世紀の後半から、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(河出書房新社)のような人類学が流行しました。南アフリカでは劣等種だったホモ・サピエンスという種がどのように現生人類の立場を確保したかについて多くの人が関心を抱いたのは、バイオテクノロジーによってホモ・サピエンスという種を乗り越えられることが現実的になったからだと考えてもいいでしょう。
桐原 生物としての人間を、その祖先から遡って認識しなおそうという流れにも見えますね。
岡本 私自身も哲学においてポスト・ヒューマンについて考えるようになったのは、やはりバイオテクノロジー研究の進化を目の当たりにしたからです。学問としての生命倫理というのは 20 世紀後半にアメリカではじまりました。当初は生身の人間の臓器移植や人工妊娠中絶、またはインフォームドコンセントについて語られていましたが、1990 年代にヒトゲノム計画が開始されました。人間のゲノムがバイオテクノロジーの中心的課題になると、まだ誕生していない人間や新たに生命を誕生させることが、現実的に起こりうるものとして、大きな論争になりました。つまり人間のゲノムを操作することをよしとするのか、法的に禁止するのかという論争です。それが21世紀初頭のことですね。それが、バイオテクノロジーが哲学の俎上にのぼる出発点となりました。そして、その延長としてクローン技術なども話題になってきます。受精卵のゲノムを編集すれば、その遺伝情報が代々にわたって引き継がれていきます。そうすると、現在の人間とは異なる新たな生物が誕生することになります。この生物を「ポスト・ヒューマン」と名付けているわけです。
桐原 「ポスト・ヒューマン」という実体を仮定して、それについて論じるのがポストヒューマニズムということになっているんでしょうか。
岡本 私たちヒューマンの後継種としてのポスト・ヒューマンを語るわけです。バイオテクノロジーで想定されるポストヒューマンの誕生を考えると、その一方で人間の終わりというものが想定されます。20 万年前ぐらいに誕生して、現在は地球上を支配しているホモ・サピエンスという単一種が終わるということが、大きな問題として語られるようになりました。これはハラリの問題意識にもあったのだろうと思います。それが具体的にどれぐらいのスパンで考えられるかというと、人工的にゲノムを編集しつづけたとしても、新しい種の人間が登場するのは早くても数百年ぐらいかかりそうだというのが遺伝学者の予想です。ハラリが『ホモ・デウス』(河出書房新社)で書くような、非常に優秀なホモ・デウスとホモ・ユースレスとの間の対立がどの時点で起こるのかは未知数です。