京都大学大学院経済学研究科教授 依田高典氏に聞く
(3)モラル・サイエンスを支える「エビデンス経済学」
大局的なモラル・サイエンスの系譜を汲んで
機械学習の基礎となるベイズ統計を考案したトーマス・ベイズは、イギリス的なモラル・サイエンスの祖であるヒューム1の懐疑論に反駁していますが、ベイズ自身はプロテスタントの牧師だった人ですから道徳的な観点を失わなかったはずです。途上国の支援や貧困の解決などの統計学や経済学が持っている道徳性については、そういった歴史からみると考えるべきことが多いですよね。
依田 貧困や格差という社会悪を排除するために発展してきたというモラルサイエンスとしての経済学ですね。既存の権力に行動の自由を制限されることなく、個人の利益と社会の利益とを両立させていく理論というのが経済学の学問的立場です。
その一方で、経済とテクノロジーが関わる分野では、株価予測や景気動向など、個人の利益を最大化する利己的な動機で用いられている事実も払拭しがたいと思います。
依田 人間に両面性があるように、経済学という学問にも両面性があります。表の顔として社会的厚生を達成することを善――偽善も含めて――とすると、裏の顔は、やはり個人としての金銭欲や出世欲、功名心といったことになります。経済学者も人間ですから、必ず両面の心を持っています。アメリカでは、多くの経済学者がコンサルタントやアドバイザーとして巨額の契約をしたり、起業したりします。成功すれば、その人の理論が優れていることが証明されたという評価にもなりますし、贖罪的に貧困解決や格差是正などの社会活動を行うことでバランスを保つケースも多いですね。イギリスのパブリックスクールなどでは、自分の欲望を臆面もなく出すことは限りなくはしたないことだと教え込まれます。少なくとも大学にいる間はそういう態度を求められます。とはいえ、彼らはオックスフォードやケンブリッジで大学の教授になっても、お金を稼げないことがわかっていますから、大邸宅に住む貴族を除くと、みんなシティ金融街に行って必死に働きます。経済学も善と悪の両面で使われることは免れえません。ただし、経済学も万能の杖ではありません。想定外のシステムリスクには対応できませんから、そうした場合には破綻します。AI も、予測できるのは過去の訓練データに基づいたトレンドです。思いもよらない景気変動や戦争、気象変動を機械学習や因果推論でコントロールすることはできませんから、何度も失敗するでしょうね。
先生が著書で認知的不協和とされている「原発はなくしたいけれど、電気代が上がるのは嫌だ」というのを、たとえば「戦争は嫌だけれど増税は嫌だ」というような、議論の余地のあることを認知的不協和として読み替えて、二者択一を迫られるようになると、かなり不穏なことになります。
依田 そうですね。時には 100 年スパン程度にピントをぼかしてみなければ、見たいものを見たいように見て、聞きたいもの聞きたいように聞くだけになり、寛容さを失ってしまいます。
ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』から「アニマルスピリット」の概念だけを抜き出して主張すると、単なる精神論になってしまいます。最近では、『アニマルスピリット』(東洋経済新報社、山形浩生訳)の著者でもあるアカロフが経済ではなくストーリーが重要だということを言っていますし、共著者であるシラーが経済破綻の原因をファイナンスではなくアニマルスピリットに求める主旨の発言をしたりしています。両者とも市場の危うさを指摘しているのですが、短絡するとかなり危うい議論を誘発する可能性もあります。先生が行動経済学やナッジを解説するときに、どれだけ簡潔さを求められる文章でも、そこに至る古典派経済学や経済思想の系譜を必ず書かれるのは、そういう危惧があるからだと拝察します。
依田 おっしゃる通りです。相対化して見ることを怠って、主流派一辺倒になっても異端派一辺倒になってもいけません。100 年ぐらいのスパンで、精神史や科学史を相対的化するほどの長い目で見なければ、学問のありようはわかりません。それこそ行動経済学が示したように、人間が見たいものだけを見るようになってしまうと、1 つのものに固執して寛容さを失ってしまい、極端に走ってしまいます。
合理性をまとった精神主義というのが、最もやっかいですね。人を不安に陥れてから一見合理的にみえる精神主義を説いて……というのが、ファシズムやカルトを含む、あらゆる集団主義が用いてきたレトリックですし、私たちが完全には克服できてこなかった図式でもあります。
依田 私は京都大学経済学部という、マルクス経済学や新左翼が強いところにいましたから、そういう例をたくさん見てきました。権威を否定していた人が権力を持ってしまうと、いとも簡単に体制側に寝返ってしまい、排他的になってしまう。司馬遼太郎が「酩酊気質」と評したように、酔って暴れることのできる場を求めてしまう人はいて、極端に走ってしまうんですね。
そうすると、批判的なものの見方を失い、むしろ抑圧するようになってしまう。カーネマンやトヴァルスキーの用語を敷衍すれば、直情的な「システム 1」に基づいたふるまいが自己目的化して、熟考する「システム 2」が発動しなくなってしまうということですね。
依田 そこに陥らないことが、本来のモラル・サイエンスの役割です。
先生が現在、ミクロ経済学・マクロ経済学・計量経済学の 3 つを柱とする主流派経済学に対して、行動経済学・実験経済学・ビッグデータ経済学の 3 つの柱からなるエビデンス経済学を提唱されているのも、若いころのように主流派経済学を否定する意図ではないですよね。
依田 その通りです。行動経済学はフィールド実験を通じて、エビデンスベースで人間を見る限りは間違いません。人間には合理的なところも非合理なところもあって、そのミックスチャーとして限定合理性が生まれるんです。
行動経済学については、よく心理学と経済学を結合させた学問と説明されます。しかし科学全体の系譜として考えると、便宜的に枝分かれした学問が同根に戻っているわけですね。
依田 面白いものですね。私自身も、行動経済学を学ぼうと思ったことはありませんから。まず伊東光晴先生のもとでケインズを勉強して、人間の合理性が逸脱して大恐慌や大失業のきっかけとなる「真の不確実性」に興味を持ちました。カーネマンたちの行動経済学の考え方は、それを説明する際に便利だったので使いはじめたのですが、彼らの実験心理学の手法からフィールド実験ができて、経済学が実験と実証のできる学問になった、という経緯です。それから行動経済学を因果推論の科学に位置づけて実体化することに興味を抱いたら、すぐ隣に機械学習や人工知能という分野があり、研究で扱うようになりました。いまは電気工学や人工知能の情報処理の方々と議論するのが、とても楽しいです。
さきほど伺った、ケンブリッジ時代のケインズのエピソードが彷彿とさせられます。
依田 熱狂するテーマとして、やりがいを持って挑んでいます。<了>