存在論的不安がもたらす終末論とノスタルジー
シティ・ポップ・ブームから考える成熟後の近代
陰謀論とノスタルジーが曇らせる想像力
当然ながら、近代の後の世界を一足飛びに清算して、人類滅亡のディストピアを待望する短絡的な考えや、そこにポスト・ヒューマンとして君臨するといったエリート意識は容認されるものではないだろうし、受け入れられるべきでもない。経済学者ポール・クルーグマンは「ニューヨーク・タイムズ」のコラムに「富豪たちは私たちよりイカれている(The Rich Are Crazier Than You and Me)」とする記事を載せ、テック界のトップの多くが陰謀論を支持するのは、彼らが従来の常識を疑うことで大金を得たために、その「逆張り」志向を、なににでもあてはめようとすると指摘した。そのうえで、彼らが巨大な富と影響力を持つにもかかわらず非合理的な隘路に陥るのは、自負する能力にもかかわらずコントロール不可能な世の中の複雑さを受け入れられず、影に得体のしれない陰謀団がいるのではないかという猜疑心に染まってしまうからではないかと推測する。
ボブ・ディラン&ザ・バンドのローディから映画プロデューサーを経てテクノロジー評論家に転じたジョナサン・タプリンは、イーロン・マスク、ピーター・ティール、マーク・ザッカーバーグ、マーク・アンドリーセンの4名を名指して「テクノ・オルガリヒ(Techno-Oligarchs)」と呼び、4人が自分たちの寡占状態を維持するために、メタバースや火星移住、暗号資産というファンタジーを売りつけていると指弾する。また、テクノロジーによって既得権を打ち破るシリコンバレーのヒーローだった彼らが、いまは巨額の資産を防衛するために反民主主義かつ権威主義的な展開をはかっていることに警鐘を鳴らしている。
1980年代半ば以降、資本主義・民主主義・個人主義といった近代社会の道具立てがひととおり揃ったところで、思想ではポスト・モダンとして、社会学では後期近代として、近代以降の社会については多方面から考察がなされてきた。かつてCCRUに所属したのちにランドらと袂を分かち、左派加速主義の代表人物となったマーク・フィッシャーは「資本主義の終わりより、世界の終わりを考えるほうがたやすい」としてノスタルジアと揮発性の高い快楽にとらわれる2000年代以降の閉塞感を批評した。また近代の達成にむけた「大きな物語」が失われた成熟後の後期近代を「リキッド・モダニティ」と位置づけて論じた社会学者ジグムント・バウマンは、国境に基づく国民国家「リヴァイアサン」が絶対的な力を失い、存在的不安のもとでホッブズより昔の過去に憧憬を抱く「レトロトピア」の時代へと退行していることを指摘している。
排他的な陰謀論や自国中心主義がいわれ、懐古と終末論との両極化が進む現在の状況をふまえると、日本のシティ・ポップが世界で受容される音楽状況は、再評価や逆輸入とはちがった様相としてみえてくる。もちろん、過去の音楽に耳を傾けることは悪いことではないし、音楽が一過性のものとして消費されないに越したことはない。しかし過去に耽溺するあまり、未来への想像力を拒絶することは、生の1回性を損なうことになりかねない。それこそが、さまざまな立場や観点から数多の思想家が求めてきたことなのだし、科学技術が発展した理由なのだから。(了)