即興する心とAIの因果
第1回 心という平板なステージでなにが演じられるのか

読書を鑑賞するときや映画を鑑賞するときに「登場人物はなにを考えたのだろう」「作者はどのようなメッセージを込めたのだろう」と考えることは、作品に触れる喜びの1つである。感情移入だけが鑑賞の方法でないとしても、文字列や画像の連続に私たちが感動するのはなぜだろう。ここでは、認知と心をめぐる問いについて考えてみたい。
目次
登場人物も作者も知らない心の裡
レフ・トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』(木村浩訳/新潮文庫)は、美しく知的な女性アンナが政府高官である夫との結婚生活に倦むなかで社交界の貴公子ヴロンスキーと不倫関係に溺れる小説である。アンナとヴロンスキーはイタリアに駆け落ちするものの、アンナは社会的追放を受けてヴロンスキーとの関係は終焉する。クライマックスでは嫉妬と孤独に苛まれたアンナは列車に身を投げる。私たちはこの小説を読んで、なにを考えるだろう。アンナは世を儚んでいたのだろうか。それとも息子セルジョージャを想っていたのだろうか。そもそも生き残った可能性もあったのだろうか……さまざまな想像を巡らせることが読書の楽しみでもあるが、虚構の登場人物の書かれていない部分を知ることは不可能である。
またギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』(芳川泰久訳/新潮文庫)は、医師と結婚しつつも単調な生活に不満を募らせ、華やかな社交界に憧れるエマが不倫と浪費を重ね、砒素を服薬しつつ狂気のもとに息絶えるストーリーだ。ロマン派小説全盛の時期に写実的な筆致で書かれた本作はスキャンダラスに受容され、幾度も実在のモデルの存在を追求されたフローベールが「マダム・ボヴァリーは私だ」と言った逸話は有名である。着想のきっかけとなる事件は実在し、かつてロマン主義に傾倒していたフローベールが華やかな世界に憧れた経験も影響したとされるが、結局のところは現実と虚構とが混同されることに辟易して、書かれたものがすべてであるということを示す含意が強くあったようだ。
ストーリーに惹き込まれたり、感情移入をしたりという経験は小説を読む愉しみであることは間違いない。しかし上述の2つのエピソードは、小説の登場人物に心情を尋ねてみることはできないし、作者が書かれたもの以上のことを新たに書き込むことができないことを示している。