東北大学名誉教授 野家啓一氏に聞く
(2)「科学なし/だけ問題」の時代に、前提条件を疑うということ
前提条件を疑うという科学的な態度
野家 ビジネスではよくソリューションという言葉が使われますが、課題を根本的に解決したり解明したりする本来の意味でのソリューションというのはそう簡単に見つかるものではありません。現在、ソリューションといわれているもののほとんどは、その場しのぎの安易な解決策にすぎないとしか思えません。私からすると、それをソリューションと呼んでよいのかに疑問を抱きます。以前、工学部の先生と雑談をしているときにサイエンスとテクノロジーの違いはどこにあるんだろうということが話題になりました。その工学部の先生は、工学的な知識を一定の前提条件のもとで複合させて最適解を求めるのがエンジニアリングでありテクノロジーだとおっしゃいました。その先生からすると、理学部の先生はその前提条件そのものを疑ってしまうから、最適解やソリューションを求められないそうです。私からすると、前提条件を疑うことこそ科学として大切で、前提条件を受け入れてしまったら、あとはコンピューターにデータを入れて自動的に出てくる答えを待つだけになりかねないと思います。私は、前提条件に疑いの目を向けて、そこから原理的なことを追究するのが学問の役割であり、サイエンスの原点だと思うのですけれど。ガリレオ自身はそうした意味で「宇宙は数学の言葉で書かれている」と言ったと思うのですが、それが使い回されるうちに数学的な解が求まれば万事OKという方向へと誤解されていったのだと思います。
桐原 先ほど先生が言われたように、ソリューションという言葉が短絡的な意味で用いられるのは、前提を疑わないまま最適解を求めるからですね。
野家 前提条件をそのまま受け入れてしまえば、答えというのは半分出ているようなものです。あとはデータを集めてコンピューターで計算すれば済んでしまいます。しかし前提条件をもう一遍とらえなおしたり考えなおしたりというプロセスを怠ると、科学技術が社会に組み込まれたり実装されたりするときにボタンを掛け違ってしまいかねません。前提条件を全面的に疑うと先に進めなくなりますが、一歩立ち止まって考えるということが近年とくに素通りされがちのように思います。急ぎすぎるあまりに答えをすべてAIやコンピューターに求める方向に偏りすぎていると思います。
桐原 前提条件をそのまま受け入れるというのはよく先生が書かれている「理論負荷性」とも関係がありますか。
野家 そうですね。私たちは物事を自明のものとして受け入れてしまいがちです。理論負荷性というのは、観察をするときにあらかじめ理論が念頭にあって先入観をもってしか物事を見られないということです。ですから、自分が先入観をもって見ていることを、いちど反省し自覚してみることが必要だと思います。それが前提条件を見直すことや立ち止まって考えるということです。自分が見ているままが世界のあり方ではなく、自分は色眼鏡を掛けて世界を見ているかもしれないと考えてみることが、AIやパソコンを使うときには特に重要です。AIやパソコンというのはすでに理論負荷的なものですから、どのようにそれらを使いこなすかという人間の主体性を重視する視点というのを常に自分のなかに組み込んでおく必要があります。世阿弥のいう「離見の見」とか最近よくいわれるメタ認知の働きのように、自分の頭の後ろにもう一人の自分を置いて自分が色眼鏡を掛けて物を見ているのではないかと少しでも反省してみることが必要だと思っています。
桐原 私はさまざまな科学技術分野の方にインタビューしていますが理論への信仰に近いものを持っている方が多く往々にしてそのフレームを外れた話をしづらいことがあります。
野家 私たちはあくまで現代のパラダイムのなかで理論を使いこなしているわけです。今ある理論が絶対でも普遍的なものではありません。科学理論というのはカール・ポパーのいう反証可能性、つまり客観的データによって反証される可能性を持ちます。ですから科学者は、理論を絶対的なものとして信仰するのではなく、パラダイムが変わればいつ反証されてもおかしくないことに自覚的でなくてはなりません。そうした意味では理論というものは注意深く扱うべきだと思います。