玉川大学文学部名誉教授 岡本裕一朗氏に聞く
(1)ポスト・モダンからポスト・ヒューマニズムへ

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聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

デジタル技術が人間を追い越すのか、人がデジタルで進化するのか

岡本 20 世紀の終わりからデジタル・テクノロジーが急速に発展しました。レイ・カーツワイルは、人間がゲノム編集によって進化するよりずっと前の 2045 年ごろには、ニューラル・ネットワークの処理能力が、人間の脳の能力を超える可能性があるという文脈で「ポスト・ヒューマン」という言葉を用いました。これは、バイオテクノロジーによってホモ・サピエンスのゲノムが書き換わる、という意味での人間の終わりや人類の消滅が、デジタルテクノロジーによってもたらされる可能性があるとも考えられるわけです。アリストテレスが知識「エピステーメ」と技術「テクネー」とを峻別して以来、テクノロジーは単なる手段として低く位置づけられてきた側面がありました。哲学におけるテクノロジー観を再考しようという動きがでてきたのは、21 世紀になってからのことです。

桐原 テクノロジーがあまりに進化して思想にも影響をもたらすようになった。思想がテクノロジーを無視できなくなったということですよね。

岡本 15 世紀の活版印刷のテクノロジーは近代社会を形づくってきました。同じように考えると、20 世紀末から 21 世紀はデジタルテクノロジーが社会を変えてきたといえます。1970 年代にポスト・モダンという思想的流行がありました。しかし近代の後になにを置くかについては、さまざまな可能性が模索されました。近代(モダン)については、経済の側面からすれば資本主義として捉えられますし、政治形態でいえばリベラルデモクラシーとして捉えられます。その代替として社会を変えるものを考えたときに、これまで哲学では中心に据えられなかったテクノロジーというものが一躍注目を集めるようになりました。

桐原 カーツワイルの著作を読むと進化論によって神のもとから奪われた生命誕生の神秘を、人間の手によって取り戻そうとする宗教的な思想の匂いを感じるんですが。

岡本 そのような含意はあると思います。カーツワイルの発想は、人間の知性と機械の知性とを別個に比べるものではなく、人間の脳と機械とを組み合わせる発想です。その意味では、コンピューターが人間を超えるというよりも、人間そのものがコンピューターの力を借りてアップデートするような発想ですね。

桐原 人間が変わるといっても、ゲノム編集の場合とは異なり、カーツワイルやハラリのいう変化は、ナノマシンを身体に入れるなどして侵襲的に「変える」ということになりますよね。

岡本 そうですね。バイオテクノロジーで現在、すでに生きている人間を変えることはあり得ません。あくまでも精子と卵子を使ってゲノムを変え、次に生まれる人間を変えることになります。カーツワイルの場合は人間の脳とコンピューターを結ぶことを想定しています。

桐原 そうすると、トランス・ヒューマンやホモ・デウスというのは、ニーチェのいう「超人」のように、神なき時代に神の代替としてふるまう人間ということになってきます。

岡本 そうですね。

桐原 神が創造した存在である人間を改造するということが、カーツワイルの信仰に照らして許されるかどうかに疑問を抱くのですが。

岡本 カーツワイルにとってあまり強い禁止事項にはなっていない気がします。ほんの少しですが、カーツワイルの著作にもニーチェへの言及があります。シンギュラリティの主張においては、おそらくニーチェの超人思想も念頭にあったのだと考えられます。カーツワイルにおいては、むしろ生物と機械の対比から科学を総合して研究していくサイバネティクスの考え方が大きく影響していると思います。人工知能においては、2 通りの考え方ができます。ひとつは人間からまったく独立した機械として人工知能をつくる発想、もうひとつは人間と機械とが融合する発想です。カーツワイルは、おそらく後者のサイバネティクス的なことを考えていると思います。

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