大阪大学大学院教授・藤井啓祐氏に聞く
(3)古典の常識を超える量子AI──量子機械学習のインフラ課題

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聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

古典力学をベースとした常識から量子的思考へ

桐原 Google本社の元副社長の村上憲郎さんとお話した際に、量子力学的な発想――クオンタム思考――が大事とおっしゃっていましたが、先ほど藤井先生が言われていた、量子のための量子による量子のコンピューターということがクオンタム思考的だなと感じました。

藤井 今はどうしても古典物理学の常識にとらわれすぎだなと思っています。その常識で成立しているビジネスから見ると、古典の土俵に来てくださいというのは当然だと思うのですが、何かを根本的に大きく変えるためには、量子の舞台で考えないといけないと思うんですね。よく言われるのは、機械学習で古典のデータを量子コンピューターで機械学習すると、古典のデータを量子コンピューターに送るインターフェースがボトルネックになるんですね。だったら最初からデータは量子化して持っておけばいいわけです。量子コンピューターを使いたいなら、データセットを量子コンピューターでネイティブに持てるように処理してから保存すればいいわけです。たとえば画像を保存するときにjpegとかいろんな規格がありますけど、あれを量子回路にすぐに流し込めるようなデータフォーマットで持っておくといったことです。本当に量子コンピューターの機械学習が有益になったら、そういうデータの持ち方をすると思います。データ転送がボトルネックになってブレーキがかかるなら、最初から量子コンピューターに合わせてデータのフォーマットをつくるという考え方が量子的思考と言えるかもしれません。

桐原 伺っていて、古典力学の常識で考えてしまうと、可能性の幅はすごく狭くなってしまうし、将来の見通しも悪くなるなということを思いました。

藤井 とはいえ、量子的な思考にいますぐに転換するのは難しいと思います。やはり動く量子コンピューターが発達して身近に使えるようにならないといけない。真空管のコンピューターとかENIACとか、1940年代、50年代のコンピューターでTwitterっていうアプリケーションは思いつけないですよね。

桐原 たしかに。分かりやすいですね。

藤井 絶対、無理ですよね。量子コンピューターが進化していって、それがいろんな人が使えるようになって初めて、量子前提で何をしましょうかということが考えられるようになると思うんです。

量子性が絡んでいる環境問題を量子コンピューターで解決

桐原 先生は、世の中には量子性がネックになって解決できない問題が結構たくさんあって、それを量子コンピューターで解決できるとお話しされています。世の中にある量子性がネックになっている課題とは具体的にはどういう課題でしょうか。

藤井 身の回りの重要な課題というのは量子性が絡んでいることが多いのです。というのも化学の世界は、ほとんど量子力学なんですね。水がなぜ水のように振る舞っているか理解しようとした際に、HとOがくっついていることを量子力学によって説明が可能です。世の中の化学的な現象で解決されていないことは、ほとんど量子力学が絡んでいると言ってもよいでしょう。地球規模のエネルギーの問題もそうです。生物が何億年かけて最適化をしてきたなかで、太陽エネルギーを使って無機物を有機物に変えるということを上手にやっているのが光合成という現象です。この光合成にもかなり量子的なダイナミクスが使われていて、非常に複雑に重ねあわさった量子力学的な状態が、光合成のメカニズムの中にあるのですが、実は光合成のメカニズムは解明されていません。他にも窒素固定のメカニズムがあります。地球上の人口を支えているのは、それだけの食べ物をつくれるからです。そして食べ物をつくれるようになったのは肥料が開発されたからですね。肥料がなかったら、これだけの人口を支えることはできません。肥料をつくるためには空気中の窒素が必要です。窒素は空気中にいくらでもあるわけですが、それを、固定化して物質にしないと使えません。空気中の窒素を固定化するのに使われている方法がハーバー・ボッシュ法という高校で習う化学変化なのですが、これは高温、高圧が必要で世界の消費エネルギーの数パーセントが窒素の固定化に使われています。だけど身の回りの生物の世界を見るとマメ科の植物は根っこのところに根粒菌があって空気中の窒素を固定化する媒介の役割を果たしています。根粒菌が持っている触媒酵素と呼ばれる物質があるのですが、やはり量子性が強くてメカニズムがよく分かっていません。スーパーコンピューターでも解けないぐらい複雑な電子状態になっているからです。こうした問題を、量子コンピューターを使ってメカニズムを解明し、それに基づいて効率のいい触媒をつくるとか人工光合成を実現できるようになれば、地球規模の問題に貢献できると思います。

桐原 今のお話は、先ほど言われたスーパーコンピューターで計算できるように翻訳しないで、そのまま量子コンピューターに取り入れることができればというお話につながりますね。

藤井 そうですね。量子コンピューター上で量子的な振る舞いをそのままそっくりシミュレーションすることで、触媒のメカニズムを理解できるようになります。

桐原 現状ではどうしても古典力学に一回翻訳してスーパーコンピューターで計算せざるを得ない。

藤井 そうですね。量子力学の式をシュレーディンガー方程式に書いて、古典コンピューター上の0、1の足し算引き算の世界で計算させるしかないわけです。重ね合わせとかつくれないですからね。数式に落とすと指数的に効率が悪くなるのですが、それを頑張ってスーパーコンピューターを使って解いているというのが現状です。

量子情報科学の時代の始まりを告げたノーベル物理学賞

桐原 今年(2022年)は10月にノーベル物理学賞を量子の研究者が受賞して「量子もつれ」2という言葉が世に広まりました。

藤井 重要だなと思っているのは、あれは始まりだということです。実は量子コンピューターの開発で中村泰信先生がノーベル賞を取ってもおかしくなかったのですが、それ以前の根本になった量子力学の基礎研究者3名が受賞しました。起点になった人が取ったというのは良かったと思います。これがスタートで、以降のブレークスルーを果たした研究者に今後ノーベル賞がどんどん授与されるのではないかと思いました。量子情報科学の時代の始まりを示す象徴的な出来事でした。(了)

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