脳の可塑性と自然の可塑性、または落語に救われた話
言葉なんてものはずいぶんといい加減に流布する?
「神々は細部に宿る」という言葉もその出自において謎めいている。これだけ人口に膾炙していながら、誰の言葉かいまひとつはっきりしていないのだ。建築家でもありバウハウスの校長でもあったミース・ファン・デル・ローエの言葉として「ニューヨークタイムス」の追悼記事に見つかるという話もあるし、フローベル、アインシュタイン、ル・コルビジェ、ニーチェといった錚々たる面々が口にしたという記述もネットにある。
ローエやル・コルビジェのものであるなら建築のような大きな構造物であってもその本質的な意味はたとえば壁紙の素材といった細部にこそこめられていると言いそうだし、フローベルであれば文芸作品のもっとも真なる部分はたった一語にあるかもしれぬと述べそうだし、ニーチェなら無限の絶対者である神の死後、人々の卑近で些細な感情にこそ真理があるのだとも言っているようだし、アインシュタインであればそれこそミクロの世界である量子の動きを「神はサイコロはふらない」と否定しながらも非常に微細なディティールである量子そのものこそが物理世界の普遍性の源と考えたのかもしれない。いずれにしろ、含蓄のある言葉で脳梗塞患者がベッドのうえで排尿する際にさえ思い出してしまうほどだ。この言葉の解釈は自由だ。一説には語源を神秘主義者のエックハルトまで遡れるようだから、近代以前の生活世界にも通じるのかもしれない。
生活世界における主観的な経験とは歴史に応じて変化するものなのは先のフロイトの例をみても明らかだろう。日本人は明治維新後、西洋に倣って自然科学による制度化を進めることで近代化しようとした。ゆえに日本人は改めて“日本を発明”しなおしたのだ。現代の日本人には江戸期の日本人の生活世界を想像できない。江戸末期に成立した落語であっても、その登場人物の生活世界における経験や感情は私たちと隔絶している。
「伝統を現代に」をスローガンとした立川談志の落語には近代の制度化された知覚や経験が取り込まれていると感じる。フロイトの発明した心理が、江戸の長屋の庶民の裡に構築されているのだ。だから談志はしばしば「狂気」と言ったりする。狂気はフーコーの言う通り、近代化に寄り添う概念だ。近代化された知覚体験が落語に現代でも通じるリアリティを生み出した。立川談志が天才と言われる由縁だろう。
江戸の長屋の庶民の生活世界とはいかようなものであったろうか。つい先ごろ、亡くなった渡辺京二の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)では、現代の私たちとはまったく隔絶されてしまった往時の日本人の生活世界を垣間見ることができる。訪日外国人の目を通してみるからこそ、そこには日常の些細な細部がていねいに描写される。その細部によって私たちは往時の日本人の生活世界の手触りをもってしることができるのだ。
訪日外国人が苦労したのは、やはり日本の厠であったろうという想像も容易にできる。
いやいや、最後も尾籠なところへ落ち着けた。
逝きし世の面影
平凡社ライブラリー
ISBN:9784582765526
追伸 後遺症で目眩に悩まされている私は「こんなぐるぐる回る家はいらねぇ」と落語「親子酒」のサゲを呟いて我が身を慰める。
おあとがよろしいようで。
