量子コンピューターを理解するための量子力学入門
第5回 量子もつれとは何か?─量子情報技術の要からホログラフィック原理まで
ホログラフィック原理が示す“空間は幻”の可能性
3次元世界を生む2次元の量子もつれ
量子もつれは、量子コンピューターをはじめとする量子情報技術の要であるだけでなく、実はこの世界の成り立ちにも深く関わっているかもしれない……、そんな可能性が近年、物理学者たちによって理論的に研究されている。
私たちが住む世界は、縦・横・高さの3つの次元をもつ3次元空間である(時間を加えて「4次元時空」とも呼ぶ)とされてきた。しかし、近年の理論物理学の進展によって、3次元の世界は幻かもしれない、という可能性が真剣に議論されるようになってきているのだ。このような仮説は「ホログラフィック原理」と呼ばれている。この仮説によると、私たちの住む3次元空間と“等価”な2次元平面があり、そこには量子もつれの形で情報が埋め込まれているのだという(図2)。そしてその2次元平面からホログラフィーのように浮かび上がったのが、私たちが知覚している3次元空間の世界だというのだ。3次元空間と2次元平面のどちらが“真の世界”なのかは分からない。そもそも等価なのだから、どちらが“真の世界”なのかは見方による、とも言えるのかもしれない。

図2:ホログラフィック原理
ホログラフィック原理の世界観は、3Dゲームに似ている。ゲームのキャラクターはテレビ画面に映し出された仮想的な3次元空間の中を自由自在に動き回ることができる。しかし当然ながらゲームの中の世界は現実のものではない。ゲームの世界は、2次元的に配置された基盤内を行き来する電流などによって生み出された幻だ。
現実の世界も、3Dゲームのように別世界のコンピューター上で行われているシミュレーションである、とする「シミュレーション仮説」が哲学の世界で議論されているが、ホログラフィック原理はそれと似た考え方だ。しかしホログラフィック原理は、物理学の理論的な研究から生まれきたものであり、しっかりとした理論的な背景がある仮説だと言える。
現代物理学には2つの土台となる理論がある。原子や素粒子、光などの振る舞いを説明する理論である「量子論」と、時間と空間と重力の理論である「一般相対性理論」だ。理論物理学者たちは、この世界の土台となっている理論が2つあるという現状に納得していない。究極の理論はたった1つのはずだと考え、量子論と一般相対性理論を融合させた「量子重力理論」を構築しようと、数十年にわたって研究を続けているのだ。量子重力理論の有力候補の1つが有名な「超ひも理論(超弦理論)」である。超ひも理論は、この世界を形作っている最小単位である素粒子の正体を、振動するひも(弦)だと考える理論である。ホログラフィック原理は、この超ひも理論の研究などから生まれてきた考え方だ。
ホログラフィック原理にもとづいた仮説によると、2次元世界で量子もつれが生じると、3次元世界にはそれに対応した小さな空間の“泡”が生じるのだという。そして2次元世界の無数の量子もつれが、広大な3次元空間を紡ぎだしているのだと考えられるそうだ。非常にイメージしにくい話だが、理論物理学の最先端では、このように空間すらも当たり前の存在だとみなさず、その成り立ちから解き明かそうとしているのである。
実はホログラフィック原理が成り立つことが理論的に確かめられているのは、私たちが住む世界とは異なる物理法則が成り立っている仮想的な世界だけだ。物理学者たちは非常に自由な発想をもっており、私たちの住む3次元空間とは異なる高次元空間が仮に存在したら、いったいどんな物理法則が成立するのか、といったことを理論的に研究している。そういった研究の流れの中で、ホログラフィック原理が発見されたのである。つまり現状では、ホログラフィック原理は、私たちの世界とは異なる高次元の世界などで成り立つことが分かっているにすぎない。私たちの住む現実世界で本当にホログラフィック原理が成り立っているのかどうかは、まだよく分かっていないのだ。
It from Qubit:モノより情報が根源?
現在、理論物理学の世界では、この考え方をさらに発展させた「It from Qubit.(この世界のあらゆるモノは量子情報《量子ビット》から生じる)」という考え方が注目を集めている。これは、量子コンピューターの概念の生みの親、デイヴィッド・ドイッチュ(1953〜)の師としても知られる著名な物理学者ジョン・ホイーラー(1911〜2008)が提唱した「It from bit.(この世界のあらゆるモノは情報《ビット》から生じる)」という考え方をさらに発展させたものだと言える。
この連載でも見てきたように、量子力学はモノの実在性に対する私たちの常識をことごとく覆してきた。しかし、ここで発想を逆転させ、モノは何らかの情報から生み出されているのだと考えるとどうだろうか。デジタル情報(ビット)から作り出されたゲームの世界なら、重ね合わせ状態や量子もつれなどの不思議な現象が登場しても、さほど違和感なく受け入れられるのではないだろうか。量子力学の不思議さは、この世界のより基本的な要素がモノではなく、何らかの情報であることを意味しているのかもしれない。
従来型のコンピューターのビットにしろ、量子コンピューターの量子ビットにしろ、情報は何らかの物理的な実体(モノ)によって表現されている。通常のビットなら、電流のあり・なしや、磁気のN極・S極、量子ビットなら、光の振動方向の縦・横や、原子のエネルギー状態の高・低などである。「It from bit.」や「It from Qubit.」の考え方は、これとは逆に「情報からモノが生まれる」という考え方だが、モノなしの情報などあり得るのだろうか? もしあり得るとしたら、それはいったい何を意味しているのだろうか。これらの答えは現時点では不明である。しかしこの考え方が正しければ、人類の世界観を根本から覆すことになることだろう。
量子力学の世界はまだまだ奥深い
本連載「量子コンピューターを理解するための量子力学入門」では、量子コンピューターをキーワードにして、量子力学の不思議な世界を紹介してきた。ここで改めて量子コンピューターの概略を紹介した第1回「量子コンピューターを巡る誤解––量子コンピューターはなぜ『計算が速い』と言えるのか?」をもう一度読み返していただければ、さらに量子コンピューターについての理解が深まるはずだ。
量子の世界は極めて奥が深く、この連載で紹介した内容は量子力学のごくごく一部にすぎない。これをきっかけに量子力学や物理学に興味をもっていただけたなら幸いである。(了)