量子力学とは何か?量子コンピューターは「ミクロな世界を忠実にシミュレーションしうる計算機」
量子コンピューターを理解するための 量子力学入門 第2回

前回は、今や次世代テクノロジーの代名詞とも言えるような存在となった量子コンピューターを巡る4つの誤解を取り上げた。そのなかで強調したのは、量子コンピューターについて理解するためには、その基礎となっている「量子力学」についての理解が不可欠だということだ。今回はそもそも量子力学とはどんな理論なのかについて解説していくことで、なぜ量子コンピューターが社会に革命を起こしうる存在として注目されているのかについて迫っていく。
目次
- 量子力学で最も重要な概念「重ね合わせ状態」とは
- 量子コンピューターが実現すれば、高効率な太陽電池や、画期的な抗がん剤が開発できるかもしれない
- 一つのミクロな粒子は、複数の場所に同時存在できる
- ミクロな粒子は「観測」によって大きな影響を受ける
- 観測前の複数の状態は実際に”存在”している
- すべての現代科学は量子力学に通ず
- 周期表に登場する元素の性質は、量子力学によって解明された
- 分子の世界をシミュレーションするには、量子コンピューターが最適
量子力学で最も重要な概念「重ね合わせ状態」とは
量子コンピューターが実現すれば、高効率な太陽電池や、画期的な抗がん剤が開発できるかもしれない
将来、量子コンピューターの活躍が期待されている分野に、新素材や薬剤の開発がある。太陽光を効率良く電気エネルギーに変換できる素材や、がん細胞の表面に存在する特定の分子を狙い撃ちする薬剤(分子標的薬)などを分子レベルで設計するシミュレーションに、量子コンピューターが活用できるかもしれないのだ。
量子力学に支配されている現象(原子レベルのミクロな世界の現象)のシミュレーションを行うには、現代で言うところの量子コンピューターが必要だということを初めて指摘したのは、アメリカの物理学者リチャード・ファインマン(1918〜1988)1で、1981年のことだという。これはイギリスの物理学者デイヴィッド・ドイッチュ(1953〜)が量子コンピューターの基礎となる理論を発表した1985年の4年前に当たる。そのためファインマンは、量子コンピューターの概念の最初の提唱者だとも言われている。
なぜこのようなことが、量子コンピューターによって可能になると考えられているのだろうか? このことを理解するには、量子コンピューターの基礎となっている「量子力学」が、そもそもどのような理論なのかを理解する必要がある。
量子力学とは、ミクロな世界を支配している法則についての物理学の理論である。ここでいうミクロな世界とは、おおざっぱに言って原子や分子より小さなスケールの世界だと考えてほしい。原子の大きさは種類にもよるが、10-10メートル(1オングストローム)程度である。10-10メートルと言われてもピンと来ないかもしれないが、1メートルの100億分の1、1ミリメートルの1000万分の1であり、普通の顕微鏡(光学顕微鏡)では決して見ることのできない、極めて小さな世界である。
一つのミクロな粒子は、複数の場所に同時存在できる
原子サイズのミクロな世界では、眼に見えるようなマクロな世界での常識が通じない。例えば、電子のようなミクロな粒子は、一つの粒子にもかかわらず、複数の場所に同時に存在することができる。領域Aに20%、領域Bに30%、領域Cに50%の確率で同時に存在する、といった具合だ。どこで電子が発見されるかは観測前には分からず、量子力学で予測できるのはその発見確率だけだ。
ここで注意したいのは、「観測前には分からない」とは、「電子の位置は観測前から確定しているが、観測者が電子の位置を観測前に知らないだけ」という意味ではない 、ということだ。「観測前に電子の位置は確定しておらず、観測によって電子の位置が初めて確定する」というのが、量子力学の標準的な解釈である。初めて量子力学の考え方に触れた人からすると、何を言っているのか分からないかもしれない。心配しなくてもいい。それは正常な反応だ。順を追って説明していこう。
ミクロな粒子は「観測」によって大きな影響を受ける
まずミクロな世界では「観測」という行為自体が、観測対象に大きな影響を及ぼしてしまうということがある。真っ暗な部屋の中で鍵を探すことを考えよう。鍵を探す(鍵の位置を観測する)には、部屋の照明をつけて鍵に光を当てる必要がある。マクロな物質である鍵は、光を当てたところでその場所から動かない。しかし、電子のようなミクロな粒子の場合、どこにあるかを知ろうとして(位置を観測しようとして)光を当てると、光が当たった衝撃でどこかに飛んで行ってしまう。そのため、観測前に電子がどこにあって、どのように運動していたかを正確に知ることは、原理的に不可能なのだ2。
光を当てると電子が弾け飛ぶ、と聞いて驚く人もいるかもしれない。身のまわりには、光が当たることで動く物体などないのだから無理もない。太陽の光を浴びると、体が温かく感じることを思い出して欲しい。これは光が当たることで、皮膚を構成している分子が揺り動かされていることを意味する。物体の温度が高い(温かい)というのは、ミクロな視点から見ると、原子や分子の運動が激しい、ということである。光はミクロな粒子(電子、原子、分子など)を動かす能力(運動量やエネルギー)をもっていて、その結果、太陽光が皮膚に当たると、私たちは温かいと感じるのである。
以上の話から分かるように、電子のようなミクロな粒子は「観測」という行為自体によって大きな影響を受けてしまい、位置が”ぼやけて”しまうのである。これだけでも驚くべきことだが、実はそれだけではない。量子力学によると、観測する前からミクロな粒子の位置は”揺らいで”おり、本質的に観測前には位置が確定していないのである。一つの電子は、複数の場所(位置)に、ある意味で同時に存在している、とみなすことができるのである。
ミクロな粒子は、位置だけではなく、速度3や自転の方向4など様々な状態が観測前には確定しておらず、複数の状態を同時に取ることができる。右に進んでいる状態と左に進んでいる状態を同時に取ったり、時計まわりに自転している状態と反時計まわりに自転している状態を同時に取ったりすることができるのだ。このような複数の状態を同時に取っていることを量子力学では「重ね合わせ状態」と呼んでいる。前回解説したように、量子コンピューターでは、情報の最小単位である量子ビットを重ね合わせ状態にすることで、超高速な計算を実現している(図1)。

図1
観測前の複数の状態は実際に”存在”している
では、なぜ観測前の電子の状態が確定していないと言えるのか? ごく簡単に説明すると、「観測前の複数の状態が互いに影響を及ぼしあい、その後の電子の状態が変化することが実験的に確かめられているから」だと言える。つまり、観測前に複数の状態が実際に”存在”していると考えないと、説明できない実験結果がたくさんあるのだ5。
電子を、不思議な忍術を使う忍者にたとえて考えてみよう。忍者は、他の人からは見えない透明な状態になれるとする。ただし、攻撃(物理学実験の「観測」に相当)を受けると、忍者は透明な状態が解除されて、その姿を現わす。
陣地に侵入してきたこの忍者に対し、敵側は多数の手裏剣をランダムな方向に投げて迎え撃った。すると、忍者に手裏剣が当たり、姿を現したが、その出現場所が奇妙だった。とても一人では登ることができないはずの高い壁の上で姿を現したのだ。
この忍者を捕らえた軍師は以下のように解釈した。忍者は分身の術を使って、2つの透明な分身に分かれた(分身Aと分身Bの重ね合わせ状態)。そして分身Aは分身Bを踏み台として、壁の上に飛び移った。こう考えれば、忍者の出現場所を合理的に説明できる。つまり、忍者は攻撃(観測)前には2つの分身をもち、それぞれの分身は互いに触れ合うこと(影響を及ぼしあうこと)ができる。しかし攻撃を受けると、一方の分身だけが姿を現し、他方の分身は消えてしまった、というわけだ。
なんとも奇妙な話だが、電子のようなミクロな粒子は、このたとえ話の忍者のような振る舞いをすることが実験で確かめられているのである。実際にどのような物理学実験が忍者のたとえ話に対応するかは、本連載の別の回で詳しく解説する予定だ6。
量子力学は、ミクロな粒子がこのような「重ね合わせ状態」を取りうることを基礎として構築されている。重ね合わせ状態を取ったミクロな粒子がどのように運動するかなどを、計算によって明らかにするのが、量子力学なのである。