量子コンピューターを理解するための量子力学入門
第4回 量子コンピューターはパラレルワールドを使っている?──多世界解釈と観測問題

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テキスト 松下 安武
科学ライター・編集者。大学では応用物理学を専攻。20年以上にわたり、科学全般について取材してきた。特に興味のある分野は物理学、宇宙、生命の起源、意識など。

観測問題の核心──シュレーディンガーの猫

箱の中の半死半生の猫は本当にあり得るか?

量子力学の基礎方程式「シュレーディンガー方程式」にその名を残しているシュレーディンガーも、コペンハーゲン解釈に反発した1人だ。シュレーディンガーがコペンハーゲン解釈(正確には後述する、コペンハーゲン解釈をさらに推し進めた解釈)を批判するために用いた思考実験が、有名な「シュレーディンガーの猫」である。

なかの様子が見えない箱に、猫と毒ガス発生装置、そして放射性物質と放射線の検出器が入っている。放射性物質が放射線を出すと、それを検出して毒ガスが発生し、猫は死んでしまう。一般に放射性物質の原子核は不安定な状態になっており、時間が経つと放射線を出し、より安定な状態になろうとする。これを放射性崩壊と呼ぶ。放射性崩壊は量子力学に支配された現象であり、いつ起きるかは確率的にしか予測できない。つまり、放射性物質の原子核は、観測するまでは、「崩壊していない状態」と「崩壊した状態」の重ね合わせになっているのだ。

コペンハーゲン解釈に基づいて単純に考えると、放射性崩壊と毒ガスの発生、そして猫の生死は連動しているので、放射性物質の原子核が「崩壊していない状態」と「崩壊した状態」の重ね合わせになっているなら、猫も「生きた状態」と「死んだ状態」が重ね合わせになっていることになる。いわば半死半生の状態だ(図1)。そして観測者が箱を開けてなかの様子を確認(観測)したときに初めて、状態の収縮が起き、猫の生死が確定することになる。しかしシュレーディンガーは、猫が半死半生の状態になるなどあり得ず、このような誤った結論を導いてしまう解釈は誤りだと主張したのである。

シュレーディンガーの猫 思考実験 多世界解釈 観測問題

「シュレーディンガーの猫」の思考実験・credit:Dhatfield(CC BY-SA 3.0)

コペンハーゲン解釈は、現在でも量子力学の標準的な解釈だとされているが、どの段階で、どのような仕組みで状態の収縮が起きるのかについては、研究者によって考え方に幅があるようだ。おそらく多くの物理学者は「半死半生の猫」があり得るとは考えていないだろう。通常は、マクロな物体である検出器が放射線を検出した時点(放射線と相互作用した時点)で、状態の収縮が起きるとみなされる。量子力学が適用されるのはミクロな物質に対してだけであって、マクロな物質と相互作用が起きた時点で状態の収縮が起きる、と考えるわけだ。しかしミクロとマクロには明確な境界線はない。実際、近年では、条件さえそろえば、比較的大きなサイズでも量子力学的な現象が顔を出すことが様々な実験で明らかにされている。

どういった条件が整えば、どのような仕組みで状態の収縮が起きるのか(観測と言えるのか)については、詳しくは分かっておらず、このような問題は量子力学の「観測問題」とよばれている。量子力学の解釈とは、基本的に観測問題に対する立場の違いだと言える。

連載の第1回でも言及したが、量子コンピューターでは、量子ビットの重ね合わせ状態を維持しながら計算を行っていく。その際、周囲の環境(装置や空気など)との相互作用ができる限り起きないようにする必要がある。量子ビットが周囲の物質と相互作用して量子ビットの重ね合わせ状態が崩れてしまうと(状態の収縮が起きてしまうと)、計算がそこでストップしてしまうからだ。そのため、状態の収縮は、量子コンピューターにおいても非常に重要な問題となっている。

意識が状態収縮を引き起こす? ノイマン&ウィグナー解釈

実はシュレーディンガーがこの思考実験を用いて批判したのは、コペンハーゲン解釈をさらに極端に推し進めたフォン・ノイマン2(1903〜1957)とユージン・ウィグナー3(1902〜1995)の解釈だった。ノイマンとウィグナーは、放射線の検出装置も、猫も、観測者も、究極的には電子のようなミクロな物質で構成されているのだから、マクロな物質と相互作用するだけでは状態の収縮は起きないと考えた。ではいつ状態の収縮が起きるのか? ノイマンとウィグナーは、実験結果が観測者の「意識」に上った段階で、状態の収縮が引き起こされる、と考えた。

この解釈にシュレーディンガーが反発したのも無理はない。ノイマンとウィグナーの解釈は、意識(心、精神)を物質とは異なるものとみなしており、多くの物理学者たちが嫌う、いわゆる二元論的な主張だったからだ。

意識(consciousness)がなぜ生じるのか、どのようにして生じるのかについては、現代科学においてもほとんど解明されていない。脳のニューロン(神経細胞)どうしが電気的な信号や化学的な信号(神経伝達物質の受け渡しによる信号)をやりとりする結果として意識が生じる、という大枠は分かっているが、詳細は分かっていないのだ。

DNAの二重らせん構造を発見した1人として著名なフランシス・クリック(1916〜2004)が、1990年頃から意識の研究に取り組み始めた影響もあって、近年になってようやく研究が活発になってきてはいる。しかし、そもそも意識の問題が科学で解明できるのかすら、よく分かっていない。近年は「AI(人工知能)に意識は生じるのか」が議論されることも多くなってきたが、そもそも自分以外の他人に意識があるかどうかを確認する手段すら確立していないのだ。ノイマンとウィグナーが量子力学の解釈に意識を持ち出したのは、ある意味で現代科学における“禁じ手”とも言えるものだったのである。

人間自身が重ね合わせ状態に? ウィグナーの友人

シュレーディンガーの猫の発展版である「ウィグナーの友人」という思考実験は、私たちをさらに混乱させる。実験室の中には、シュレーディンガーの猫の実験のセット一式と、ウィグナーの友人がいる。ウィグナーの友人は実験開始から1時間後、箱を開けて猫の生死を確かめる。その後、ウィグナーの友人はウィグナーに電話し、猫の生死を伝える、という思考実験だ(この思考実験には様々なバリエーションがある)。

ウィグナーの友人の立場からすれば、箱を開けた時点で重ね合わせ状態は崩れているだろう。しかし、ウィグナーの立場からすれば、友人から実験結果を聞くまでは「生きている猫を見た友人」と「死んだ猫を見た友人」の重ね合わせ状態になっているとも考えることができる。果たして人間の重ね合わせ状態などあり得るのだろうか? このように観測者が2人登場すると、問題はさらに複雑化する。

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