その声は、だれがどこに呼びかけるのか
第1回 「正義の倫理」に異を唱えたギリガンの「ケアの倫理」

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テキスト 都築 正明
IT批評編集部

約半世紀前に提出された理論が、いま再び現代社会に大きな意義をもたらしている。2025年に京都賞を受賞したキャロル・ギリガンの提示した「ケアの倫理」は、心理学の周縁に押しやられてきた「ケア」や「声」を幅広い全体で捉える劃期となっただけでなく、技術と倫理が交錯する現在においても深く考え、アップデートすべき課題を抱えている。本稿は、その再評価の道筋を、学問史と同時代的文脈の交点から検証する。

 

目次

半世紀を経て再帰する理論と思想

「正義」を至上とする道徳発達段階論

 

半世紀を経て再帰する理論と思想

前回、声について論じたいと記したと同時期に、ニューヨーク大学教授の心理学者キャロル・ギリガンが2025年度の京都賞思想・芸術部門を受賞した。ギリガンは、1982年に原著を刊行した『もうひとつの声で:心理学の理論とケアの倫理』(川本隆史・山辺恵理子・米典子訳/風行社)において、女性の思考と行動を分析することで従来の男性中心主義的な古典派心理学と発達理論に異を唱え、関係性を重視する「ケアの倫理」を提示することで心理学の視座を広げたことで著名な心理学研究者である。

同賞は、稲盛和夫財団が1985年に創設した賞で、毎年先端技術部門と基礎科学部門、そして思想・芸術部門の3部門に、メダルと賞状および賞金1億円がそれぞれ贈られる。第1回の受賞者をみてみると、先端技術部門受賞者はスイス連邦工科大学教授だった制御工学者ルドルフ・エミル・カルマン、基礎科学部門受賞者は当時マサチューセッツ工科大学教授でありデジタル回路設計および情報理論の創始者クロード・エルウッド・シャノン、思想・芸術部門受賞者は作曲家・音楽教育者オリヴィエ・メシアンである。

キャロル・ギリガンとともに2025年に受賞したのは、基礎科学部門受賞者ではゲノムインプリンティングを発見し、エピジェネティクスの発展に大きく貢献したケンブリッジ大学教授の生物学者アジム・スラーニ、理化学研究所の数理工学者甘利俊一氏である。甘利俊一氏については、2024年にプリンストン大学のホップフィールド名誉教授とトロント大学のヒントン名誉教授とが、人工ニューラルネットワークによる機械学習の発展に寄与したことでノーベル物理学賞を受賞した際に再注目を浴びた。1986年にヒントンが共著でNature誌に発表したバックプロパゲーション(誤差逆伝播法)についての論文“Learning representations by back-propagating errors.”に先んじる1967年に甘利氏がKybernetik誌(現:Biological Cybernetics誌)に発表した“A Theory of Adaptive Pattern Classifiers.”が、すでに同様の数理脳科学理論を提示していたことによる。この件については本サイト編集長エッセイ「ノーベル賞とテクノロジーの経済を巡る省察」のほか、本サイトで2023年7月にインタビューを掲載した東京大学大学院教授の人工生命研究者・池上高志氏もNTT出版株式会社が運営するサイト“DISTANCE.media”において「ノーベル賞は甘利さんが受賞してもよかったんじゃないかな」と述べている。なお当時の甘利氏の論考については、1978年に産業図書より刊行された『神経回路網の数理:脳の情報処理様式』が復刊されたちくま学芸文庫版で読むことができる。

 

「正義」を至上とする道徳発達段階論

1936年にニューヨークで生まれたギリガンは、ハンガリー系ユダヤ移民二世の弁護士を父に、ウクライナとドイツ系移民の母のもとで育つ。ギリガンの子ども時代である第二次世界大戦中は、両親はホロコーストを逃れてアメリカに渡ってきたユダヤ人の支援をしていた。ピアノを弾きシェイクスピアを愛読していたギリガンはスワースモア大学では英文学を専攻し、ヴァージニア・ウルフについて研究を重ねるとともに、モダンダンスを踊るなどの活動もしていた。学部卒業後は当時ハーヴァード大学とディプロマを共有していたラドクリフ大学で臨床心理学を学び修士号を取得後、ハーヴァード大学で社会心理学で博士号を取得している。修了後はハーバード大学でローレンス・コールバーグの研究チームに属し、道徳発達段階論の実証研究に参加する。

コールバーグの道徳発達段階論は、道徳判断を正義原理に基づく認知能力の発達として捉え、人は3つの水準における6つの段階を経て普遍的な判断へ進むとする理論である。こうした形式主義は、義務・自律・普遍法則を重視するカント倫理学を心理学的発達理論へと翻案したものであると考えられる。またその下敷きとしてピアジェの認知発達理論があり、道徳判断も段階的に発達すると考えうる。道徳発達段階論においては、幼児的な他律的判断から、自律的・論理的判断へ進むという枠組みが基盤となっている。判断基準としてコールバーグは倫理的ジレンマを包含したストーリーを用いて、各自がどのような理由や根拠に基づいて評価するのかを問う。モラル・ジレンマをふくむ典型的なストーリーに次のような「ハインツのジレンマ」がある。

 

ヨーロッパのある町で、ハインツという男性の妻が、特殊な癌で死の危機に瀕していました。その病気を治せる唯一の薬は、同じ町に住む薬剤師が最近開発したものでした。薬の製造費用は200ドル程度でしたが、薬剤師はそれを10倍の2000ドルで売ろうとしました。ハインツは知人からお金を借りるなどして奔走しましたが、集まったのは半分の1000ドルだけでした。彼は薬剤師に「妻が死にそうなので、薬を安く売ってほしい、さもなければ後払いにしてほしい」と頼み込みましたが、薬剤師は「ダメだ。私がその薬を見つけたんだし、それで金もうけをするつもりだからね」と断りました。追い詰められたハインツは悩んだ末、妻の命を救うために薬局に忍び込み、薬を盗みました。

 

このストーリーを聞かせた後に、実験者は被験者に「ハインツは薬を盗むべきだったでしょうか?」と問い、さらに「もし盗むべきでなかったとしたら、なぜですか?」「もし盗むべきだったとしたら、なぜですか?」と問い、評価する。

ここで評価される道徳発達段階の標準モデルは、前慣習的水準(pre-conventional)における第1段階:罰と服従 第2段階:道具的交換、慣習的水準(conventional)における第3段階:良い子志向 第4段階:法と秩序、後慣習的水準(post-conventional)における第5段階:社会契約 第6段階:普遍的倫理原理として不可逆かつ普遍的なものとして分類される。ちなみに第6段階は理想型であり、到達者は少ない。

この研究のもとでギリガンの抱いた懐疑が、のちにギリガンのコールバーグ批判につながり「正義 v.s. ケア」の論争を招来することとなる。

第2回につづく