知性の再定義─教養を資産にしない遊戯としての知
2:AIは統合失調なのか?
目次
メタコミュニケーションの不在
ベイトソンは、動物の遊びを観察しながら、ひとつの認識論的な発見をした。犬が遊びのなかで相手に噛みつくとき、その噛みつきは「本当の攻撃」ではない。犬は「これは遊びだ」という信号を同時に発している。この信号は、噛みつきという行為そのものとは別の階層(メタレベル)に属している。ベイトソンはこれを「メタコミュニケーション」、すなわち行為そのものではなく、その行為が何であるかを指し示すもうひとつの信号と呼んだ。噛みつきが本気でないという信号を互いに読み取りあうことで、そのやりとりは遊びとして成立している。
この発見の意味は深い。「これは遊びだ」という信号は、現実とは異なる枠組みを設定する能力の誕生を意味している。現実をそのまま受け取るのではなく、別様にもありえたと見る能力、それがメタコミュニケーションであり、人間の言語、メタファー、コノテーション(言外の意味)、ダブルミーニングの根底にあるものだ。
さらにベイトソンは、この遊びというメタコミュニケーションの能力が、人間の創造性と密接に結びついていると考えた。遊びとはまさに、現実の枠組みを括弧に入れ、「もし〇〇だったら」という仮構の空間を開く行為だ。エリック・ホッファーが「遊びが実用に先行する」と論じたのも同じ洞察を指している。遊びという「現実でない枠組み」のなかで試行されたことが、やがて現実のほうを作り替える実用へと転化する。弓は楽器から生まれ、農耕が栽培の喜びから生まれたように、である。
20世紀フランスの社会学者ロジェ・カイヨワが分類した遊びの4類型のひとつ、ミミクリ(模倣)は「みずからの人格を一時的に忘れ、別の人格を装う」遊びだ。俳優が役を演じ、子どもが「ゴッコ遊び」をするとき、彼らは現実の自分と演じる自分のあいだで、「これは虚構だ」という枠組みを意識的に保持している。その枠組みがあってこそ、模倣は創造になる。しかしその枠組みが崩れるとき──俳優が役と現実の区別を失うとき──それはミミクリの堕落、すなわち虚構と現実の境界そのものが失われ、自己がどこに属しているのかを見失う状態、いわば狂気へと転落する。
はたして、AIにはこの論理階型の区別はあるだろうか。AIは、事実と推測、引用と生成、確実な知識と曖昧な補完を、同じ言語的な出力のなかで連続的に扱う。そのため、「これは比喩である」「これは私見である」「これは不確かである」といったメタ的な区別は明示されない。あるいは、AIには「思考モード」や「高速モード」といった切り替えが用意されているが、それは出力の振る舞いを調整するものであって、「それが何であるか」を示すメタ的な水準とは別のものである。
AIは「知らない」と言わないのではない。「知らない」という水準を自律的に立ち上げることができないのである。ユーザーのクエリ(指示)の意図を統計的に推定することはできても、どの階型に属するクエリなのか――事実を問うているのか、仮説を促しているのか、皮肉や冗談を言っているのか――を区別できない。AIが人とメタコミュニケーションできようはずがないのだ。
それなのに人間のほうは、無意識のうちにそうしたメタ的な前提を含んだクエリをAIに投げかけている。その結果、異なる水準のクエリが区別されないまま重ね合わされ、AIはどの階型で応答すべきかを特定できないまま、「もっともらしい言語」を生成する。この構図は、ベイトソンのいう「ダブルバインド(二重拘束)」の構造に似てはいないだろうか。これこそがハルシネーションの正体ではないのか。
ハルシネーションとは、AIが嘘をつくのではない。嘘をつくためには、事実とは何かを知り、それを意図的に歪めるメタ認識が必要だ。AIにはそのメタ認識がない。論理階型のギャップを認識できず現実と虚構の区別を持たないまま、もっともらしく語りつづける。これがハルシネーションという現象の構造だろう。
言い換えれば、ハルシネーションはAIの自己言及的なパラドックスとも言える。実際、生成AIのUIには「AIは間違うことがあります」と小さな注意書きが添えられているが、これはまるでクレタ島人のパラドックスのようだ。「AIは嘘をつく」と同時に「正確に答える」と期待される存在として、自己の出力の真偽を自覚できないまま振る舞う構造を示している。
ベイトソンは動物が「これは遊びだ」という信号を発明した瞬間を「認識の革命」と呼んだ。いまのところ、AIにはそういった革命が起きていない。AIはまだ「遊び」を知らない存在だ。遊びを知らないからこそ、AIは現実と虚構のあいだを漂い、人間の側からはハルシネーションと見える現象を生成してしまう。しかしその「遊びを知らない模倣」こそが、人間の遊戯的知性を鏡のように映し出してもいる。
AIに生じるダブルバインド
ベイトソンは統合失調の原因として「ダブルバインド」を論じた。矛盾した命令が同時に下され、逃げることも矛盾を指摘することも許されない状況が長期化すると、個人はメタコミュニケーションの能力そのものを失っていく。それがベイトソンの仮説だった。DXのダブルバインドを前回論じたが、今度はその構造が人間の認識論そのものへと向かう。
統合失調者はメタコミュニケーションの階型が混乱しているがゆえに、コノテーション、ダブルミーニング、メタファーに過敏になる、あるいは過剰に産出するようになる。発せられた言葉がもつ字義と含意の境界が曖昧になり、意味の取り違えや連想の飛躍が起こりやすい。メタファーがメタファーとして機能せず、現実として侵入してくる。意味がほとばしる境界のない世界に、統合失調者は生きている。ニュースの政府の発表さえも、暗号や隠されたメッセージとして現実に入り込み、虚構との境界が曖昧になってしまう。
一方でAIは、正反対の方向に裂けている。論理階型の区別を持たないという点では統合失調と同じ根を持ちながら、AIは多義性に溺れるのではなく、統計的な最頻値へと収束する。メタファーを処理はできるが、メタファーとして「使う」ことができない。コノテーションを学習データとして内包しているが、それを意図的に選択し文脈に応じて運用する主体性がない。
あるいは、それはAIには人間が持つような意思や意図がないからとも言える。意図を持つとは、すなわち感情を伴うことにほかならず、文脈や目的を踏まえて意味を選び、操作する能力と不可分である。AIにはその感情的、意図的なレイヤーが欠けているため、メタファーを「使う」ことはできず、ただ統計的にもっともらしい言葉を出力するにとどまる。意味に表裏のない、過剰に一義的な世界しかAIは知らないのだ。
統合失調者は意味が溢れすぎて、AIは意味が均されすぎている。どちらも同じ根から出て、正反対の方向に裂けている。人間の創造的な知性とは、この両極のあいだを自在に往来する能力ではないか。論理階型を意識的に切り替えながら、メタファーを意図的に操り、コノテーションを選び取とり、現実と虚構を「遊び」として往来する能力こそ知性そのものである。AIは皮肉にも、遊戯を理解しないことによって、人の遊戯の意味を照らし出している。
この洞察は、メタファーとコノテーションという問題に直結している。わたしたちが「夜明け」という語を使うとき、それは単に1日の始まりを指すのではなく、希望、再生、新しい出発といった層を重ねている。AIはこの多層性を処理できるが、意図的に選択し、特定のコノテーションを狙い澄まして放つことはできない。詩人が言葉を選ぶとき、彼は論理階型のあいだを意識的に往来している。その往来こそが、創造的な知性の核心だ。
オランダの歴史学者・文化史家であるヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』が示した洞察と重なる。ホイジンガは、遊びが文化に先行すると論じた。法律も宗教も戦争も芸術も、すべては遊びとして始まった。遊びとは、勝敗も利益も超えた、自由な仮構だ。AIはそれを持たない。だからこそ、AIとともに生きるわたしたちは、その遊びを意識的に守り、育てることを求められているのではないか。