ライター/編集者・稲田豊史氏に聞く
第4回 情報から関係へ:ドラえもんが示すAIの未来

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聞き手 桐原 永叔
IT批評編集長

「正解」や「効率」を求める発想が限界を迎えつつある今、対話や共創のプロセスそのものに価値を見出す動きが広がっている。完全ではないがともに悩み、寄り添う存在——ドラえもんに、日本的なAI観の可能性を見ることができる。

稲田豊史

稲田豊史(いなだ とよし)

1974年生まれ。愛知県出身、横浜国立大学卒業。映画配給会社および出版社で、ゲーム業界誌の編集記者、DVD業界誌の編集長、書籍編集者を経て独立。主な分野は映画をはじめとしたポップカルチャー、エンタテイメントビジネス、メディア論、離婚、藤子・F・不二雄、ポテトチップスなど。

著書に、新書大賞2023第2位の『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)ほか、『このドキュメンタリーはフィクションです』(光文社)、『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新書)、『オトメゴコロスタディーズ フィクションから学ぶ現代女子事情』(サイゾー)、『「こち亀」社会論 超一級の文化史料を読み解く』(イースト・プレス)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』(PLANETS)、『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)などがある。

目次

従属物ではないバディとしてのドラえもん

道具としてのAIとドラえもん型AI

ドラえもんが完璧ではないがゆえに持つ可能性

従属物ではないバディとしてのドラえもん

桐原永叔(以下、──)ChatGPTを擬人化して名前をつける人たちがたくさんいて、そこで起きていることは、単に生成AIとしての機能ではなくて問いと回答というプロセスを通した関係の質がわれわれの満足度を左右しているのではないかということです。ChatGPTの回答に満足しているだけじゃなくて、関係の質に満足を覚えている可能性は非常に高いなと考えています。

稲田 特に日本人の場合はAIの「ガワ」というか、ビジュアルも大切です。フィジカルな外装であれ画面上のインターフェイスであれ、可愛い女の子だったり、威圧感を与えない、フレンドリーなフォルムが好まれます。それで言うと、ドラえもんのフォルムは全部「丸」でできているから、まったく威圧感を与えないんですよね。

フレンドリーさについて言うと、アニメのドラえもんはのび太のことを「のび太くん」と呼びますが、原作は最初期を除いてずっと「のび太」と呼び捨てです。「のび太くん」と呼ぶドラえもんからは、お兄さん目線で、やや距離をとってのび太を慈しむ印象を受けますが、「のび太」だとぐっと距離が近い。遠慮なくガンガン言うイメージ。やっぱりドラえもんとのび太はバディ(相棒)なんですよ。

そうか。わたしは世代的には最初にテレビで、次に「コロコロコミック」で読んだので、テレビで観ているのと違って漫画のドラえもんは「ちょっと怖い」と思った記憶があります。ドラえもんってこんなに強気なんだと。

稲田 もともとドラえもんは意外と強気だし、原作だとけっこうアナーキーなこともやっているんですよ。ドラえもんが欲に負けて失敗するエピソードもありますからね。でも、そういうドラえもんだからこそ愛される。基本的に、西洋のロボットは人間を呼び捨てにしないんじゃないでしょうか。関係性が変化してからならともかく、最初から呼び捨てにはしない。使役されている従属物がご主人様を呼び捨てにするなんて、あり得ない。

>牛馬の代わりってことですからね。

稲田 そうです。畑を耕してなんぼ、パフォーマンス出してなんぼですから。基本的にロボットは人間の命令を実行する道具、プロダクトですよね。そういう意味では、『ターミネーター2』1は革命的だったわけです。シュワルツェネッガー演じるT800は、最初は「未来の救世主ジョン・コナーを守れ」という命令を機械的にこなすだけのロボットでしたが、次第に心が宿っていったので。とはいえ、人間であるジョンとロボットであるT800との主従関係は最後までそのままでしたし、T800は最初の命令を忠実に守り抜いただけ、とも言えます。ロボットの職域は超えてない。

道具としてのAIとドラえもん型AI

漫画の話でいうと、「TEZUKA 2023」1の話を慶應大学の栗原聡先生に伺うことがあって、ChatGPTと画像生成AIのMidjourneyを使って手塚治虫の世界観を再現したそうですが、息子の手塚眞さんと一緒にやったときに、研究者たちがよくできていると思ったプロットはクリエーターからことごとく却下されて、支離滅裂なプロットのほうが面白いストーリーを生み出す可能性があるからと採用されたそうです。創作意欲が刺激されるかどうかは、人とAIの関係性に左右さると。もうひとつ思い出したのは、芥川賞を『東京都同情塔』2で受賞した九段理江さんの発言で、2024年末に出た「WIRED」誌上で「もうChatGPTは言うことが予定調和すぎて話し相手としてつまらない、もう創作なんかに使えない」という趣旨の発言をされています。最近ではまた95%生成AIに書かせて自分が5%書いたという作品3を発表しましたから、事情は変わっているかもしれませんが。

稲田 面白いですね。僕がライターとして個人的にChatGPTをどう使うかというと、論点の抜け漏れチェックです。たとえば日本の少子化問題についてコラムを書く場合、まず自力で少子化の原因や論点を書き出し、「これ以外に論点あったっけ?」と聞く。要は、ブレストに付き合ってくれる優秀な編集者の役割です。

それは道具的な使い方ですか。

稲田 完全に道具です。あとは、大昔に観た映画のあらすじをさっと確認したいときなど。

さっきの話をなぜしたかというと、手塚眞さんの反応と九段理江さんの反応の違いのなかで私が見たのは、手塚さんはドラえもん型として生成AIと付き合っていて、九段さんはやっぱり道具として面白くなくなったって言っているように聞こえたからです。ChatGPTへの向かい方の違いがそれぞれの感想に現れているかなと、編集者的な整理だけど、そう思ってしまったんです。やっぱり手塚さんの使い方は面白いじゃないですか。完璧なものなんか出てくるわけないから、何かを付け足そうと思って使う。

稲田 『どこでもいっしょ』みたいな“人工無能”を愛するのと一緒で、日本人は完璧性なんて最初から求めてないし、「使える・使えない」みたいな話もあまりしていない。コミュニケーションが面白いか面白くないかのほうが問題で、時々ハッとすることを言ってくれるかどうか程度のものであるとすれば、それがドラえもん型ってことなのもしれませんね。

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