閉域のウィルス──組織のダブルバインドと知の相転移
3:知や表現は私有できるものなのか

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

目次

著作権という制度

オリジナルなき複製、あるいはシミュラークルの逆襲

 

著作権という制度

AIというウィルスが食い破ろうとしている閉域には著作権という制度もある。

著作権とは何か。それは表現を特定の主体に帰属させ、複製と流通を制限することで利益を回収するための制度だ。いわば知や表現を特定の場所に封じ込める収束の装置である。ある表現はここにしかない。ゆえにそれを使いたければ対価を払え。偏在によって独占を正当化するこの論理は、核が「管理された偏在」によって権力を維持してきた構造と深いところで通底している。

だからこそ、AIによるコンテンツや表現の生成は著作権者たちを根底から脅かす。AIは無数の表現を学習し、特定の著作物に還元できない何かとして新たな表現を生み出す。複製でも模倣でもない、無数の表現が混濁し溶け合った生成物——そもそもオリジナルとは何かという問いへと、わたしたちは否応なく引きずり込まれていく。

しかし、ここで注意しておきたい。AIによる著作権侵害の問題を単なる「盗用か否か」の法的な問いにしてしまうと、本質を見失う。問われているのは知や表現というものが私有できるものなのかという、より根深い問いである。

前回のエリック・ホッファーの引用で指摘したように、独創性とは模倣の連鎖のなかから生まれる。表現は常に先行する無数の表現を吸収し変異し、次の表現への素地となってきた。著作権とはその循環を一点で止め、「ここから先は私のものだ」と宣言する行為ともいえる。それは生態系の流れを堰き止めるダムのようでもある。

わたしが思い出すのは、音楽評論家の大和田俊之が『文化系のためのヒップホップ入門』(共著/アルテスパブリッシング)のなかで述べていたことだ。概要はこうだ。ヒップホップとロックの根本的な違いは、オリジナリティへの態度の違いである。ロックが個人の独創性を至上とするのに対し、ヒップホップにおいてグルーヴやビートは共有の財産であり、それを引用し重ね変奏することがそのまま創造行為なのだ、と。

それは翻って日本においても同様だ。和歌の本歌取りはその最たる例だが、江戸の浮世絵師たちが互いの構図や意匠を競うように引用し合ったこと、あるいは落語が演目を特定の誰かに帰属させず、師から弟子へと受け継がれる共有財産として生きつづけてきたことを思い起こせばいい。優れた表現は即座に民主化され、みなの手に渡ってきた。特定の誰かのものとして封じ込められることを拒み、社会の隅々へと拡散、発散していくことで初めて表現は文化になる。著作権という収束の装置はそういう忘れられた文化の流れに抗うものだ。

著作権という制度が表現の共有を暴力的に断ち切った例はいくらでも思い出せる。19世紀のアメリカ南部では黒人奴隷たちが労働の場で歌い継いだスピリチュアルやワーク・ソングを、白人の出版社が譜面化し著作権を登録することで独占した歴史がある。口承で共有されてきた表現を収束の回路に封じ込め、利益を回収する構造は、著作権制度の成立当初から根づいていた。

「黒人が創り、白人が盗む」とはブラックカルチャーで昔から言い続けられてきた。かつてチャック・ベリーがビーチボーイズの剽窃を訴えクレジットを変えさせた例は珍しいほうで、なんら訴えのないままロックで黒人音楽の模倣が行われた例はいくらもある。であるのにロックの側は黒人たちがヒップホップで白人の曲をサンプリングすると厳しく処置したがる。表現はどこまでが誰のものなのか? 著作権は誰を守っているのか?

著作権が守ろうとするのは表現者の尊厳ではなく流通経済の支配権だとすれば、AIをめぐる現在の議論はその構造の最新版にすぎない。

知が私有から生態系へと還るプロセスは法廷の外ですでに始まっている。しかしそれは、AIが何かを「奪った」ということではない。立ち止まって問い直すべきことがある。そもそも表現とは私有できるものだったのか。著作権という制度が生まれる以前から、表現は常に共有され、循環し、変異してきた。AIはその本来の流れを破壊しているのではない。収束の閉域が塞いでいた水路を静かに迂回しはじめているだけなのかもしれない。

オリジナルなき複製、あるいはシミュラークルの逆襲

2023年、「ghostwriter977」という匿名アーティストによる「Heart on My Sleeve」という楽曲がSNSを席巻した。それは、ドレイクとザ・ウィークエンドの声を模倣したAI生成音楽で本物と見紛うクオリティのまま数百万回再生を記録し、ユニバーサル・ミュージックの要請によって各音楽配信プラットフォームから削除された。アーティストの権利を侵害したとしてレーベルは激しく抗議した。

立ち止まって問うべきことがある。この楽曲の何がコピーされたのかということだ。声か。しかし声は著作権の保護対象ではない。メロディか。しかしそれは既存曲の複製ではなく、無数の楽曲を学習したうえでの生成だ。スタイルか。しかしスタイルもまた法的に保護されていない。オリジナルを特定しようとすればするほど、その輪郭は霧のように溶けていく。

この問いに半世紀前にすでに答えていた思想家がいる。ジャン・ボードリヤールである。

ボードリヤールは1981年の著書『シミュラークルとシミュレーション』(竹原あき子訳/法政大学出版局)において、現代社会における記号と現実の関係を根底から問い直した。ボードリヤールによれば、シミュラークルとはオリジナルを持たないコピー、あるいはオリジナルに先行し、現実そのものを代替してしまう記号のことである。たとえば、旅行先を訪れる前にガイドや映像で“その場所らしさ”を知った気になり、現地でもそのイメージ通りかどうかを確かめる。そのとき、わたしたちは本物より先に流通したイメージ(シミュラークル)を体験しているということになる。

ボードリヤールはシミュラークルの歴史的段階を3つに分けて論じた。ルネサンスから産業革命までは名作を写す「模造」の時代、産業革命以後はオリジナルとコピーが原理的に同一となる「生産」の時代、そして現代は本物とコピーの区別自体が揺らぐ「シミュレーション」の時代である。ボードリヤールは、現代においてもはやオリジナルは存在せず、シミュラークルだけが流通し現実を規定するという──ガイドや映像やダイジェストが実在そのものとしてあるように。あるいはガイドや映像やダイジェストなしに実在そのものを感知できないように──。

ボードリヤールに従えば、現代においてオリジナルとコピーの区別はすでに意味を失っている。コピーのコピーが繰り返されるうちに参照すべきオリジナルそのものが消滅し、シミュラークル——オリジナルなきコピー——だけが実在として流通する。現実はシミュラークルによって代替され、もはやわたしたちはオリジナルなき世界を生きている。

生成AI音楽が突きつけているのは、まさにこの問いである。ドレイクの声を模倣したAIの楽曲に対して「オリジナルを侵害した」と断言できるとすれば、そのオリジナルとはいったい何か。ドレイクもまた、無数の先行する黒人音楽を吸収しR&Bやヒップホップの文脈のなかでスタイルを形成してきた。そのスタイル自体がすでにシミュラークルであるとすれば、AI音楽はシミュラークルのシミュラークルであり、オリジナルへの距離においてドレイク本人と本質的には変わらない。

さらに言えば、ボードリヤールは、あやふやなオリジナルを実在そのものとして神聖視するオリジナル信仰を捨て、この世界は「オリジナルなきコピーに満ちている」と喝破した。著作権が守ろうとしているのは、実は存在しないオリジナルかもしれない。あるいは存在するとしても、それ自体がすでに無数に先行する表現の堆積のうえに成り立つシミュラークルに過ぎないのかもしれない。

オリジナルという虚構が溶けはじめているのは法の内側ではなく表現の現場においてである。しかしそれは、AIが何かを奪ったということではない。むしろシミュラークルの論理から見れば、著作権という制度こそが、本来オリジナルを持たない表現の流れに「ここに起源がある」という虚構を刻印し、収束のシステムによって流通を管理しようとしてきた、人工的な装置だったのではないか。AIはその虚構を、静かに、しかし根底から無効化しはじめている。

第4回に続く