不完全さの生態学―収束のシステムとしての核、発散の原理としてのAI
4:管理の終焉と生の生態学への参与
目次
収束の檻から発散の荒野へ
核兵器という20世紀最大のテクノロジーが象徴してきたのは、エネルギーと権力を一点に集約しゲーム理論、統計など数学的なパラダイムによって秩序を維持しようとする学習Ⅱ的な安定の原理であった。それはテクノロジーの偏在を権力の源泉としエントロピーを収束させることで世界を沈滞させる認識論でもあった。しかし、核という収束のシステムが長らく守ってきたこの秩序は、いまAIという発散する知能の生命力によって根底から揺さぶられている。
AIという遍在するテクニウムは、特定の中心や指揮系統に統御されることを原理的に拒み、ウィルスのように境界を越えて拡散していく。ここで起きているのは、単なる道具の交代ではない。わたしたちがこれまで真理やルールと信じて疑わなかったパラダイムそのものが、AIという知能の介入によって内側から解体され無化されていくフェーズへの突入である。管理と支配によって秩序を整えようとしてきた近代は、この生命的な発散を押し留めることはできないようだ。
不完全さという出発点
大杉栄が「美は乱調にあり」と説いたように、生命の躍動は常に整然とした調和の外部にある。核が象徴した完璧な沈滞から、AIがもたらす不完全な発散へ。この転換を受け入れることは、わたしたちが制御の幻想を捨て、不確かなプロセスのなかに踏みとどまることを意味している。
ベイトソンの「精神の生態学」が教えるのは、生命の本質は、固定された結末ではなく絶えず変異しつづけるプロセスそのものにあるということだ 。管理という名の収束によって知能あるいは生命を去勢するのではなく、不完全な「乱調」を独創性の火種として抱きしめること。線形的な進化の物語を脱ぎ捨て、遍在する知能とともに予測不能なダンスに参加すること。その不完全さのなかにこそ、21世紀におけるわたしたちの思考の出発点がある。
この不可避な発散の奔流を、なおも古い収束の檻に閉じ込めようとする領域が残されている。
次回の考察では、まず企業のDX(デジタルトランスフォーメーション)がなぜこれほどまでに頓挫するのかを考察してみたい。それはAIという発散のシステムを、企業という収束の器で制御しようとする、ベイトソン的な二重拘束(ダブルバインド)の構造に他ならない。
また、AIアートを巡るオリジナリティや著作権の議論も問い直してみよう。表現の尊厳を語るそれらの主張は、実は利益の偏在(独占)を正当化するための、実用の論理という巧妙な搾取の形式に過ぎないのではないか。効率化や所有という収束の誘惑を断ち切り、再びホッファーのいう「遊び」の初源的な場所へと戻ることは可能なのか。組織の不全と、共有される独創性の行方を、引き続き追っていくこととする。