不完全さの生態学―収束のシステムとしての核、発散の原理としてのAI
2:予測可能ゆえに収束す

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

目次

均衡秩序への欺瞞

相互確証破壊という呪詛

 

 

均衡秩序への欺瞞

2025年12月、高市政権の安全保障政策を担当する高官が非公式の場で「日本は核兵器を保有すべきだ」との個人的見解を述べたと報じられた。この発言は、核保有に関する議論を公然化するものとして大きな波紋を呼んだ。政府は公式には「非核三原則を堅持する」と繰り返しているが、同時に台湾有事など東アジアの安全保障リスクを念頭に核兵器による戦争抑止を視野に入れた議論が見直されていると受け止められており、安全保障政策の大きな転換点として注目される。

このニュースにこれまでの論を重ねてみたい。それはわたしが繰り返して述べてきた偏在(Maldistribution)と遍在(Ubiquity)の問題である。偏在と遍在の問題とは、テクノロジーの影響力が社会にどのように広がるかを考える枠組みである。たとえばカーツワイルやハラリが指摘するように、AIや先端テクノロジーは一部の国家や企業、個人に集中して格差を生むことがある。これが偏在である。一方で、オープンソースAIやクラウドサービスのように技術が広くアクセス可能になる場合、誰もが利用できる状況、すなわち遍在が生まれる。この対比はテクノロジーの社会的影響や倫理的課題を理解するうえで重要だと考えている。

そのうえで核保有による抑止力について考えれば、それは20世紀的な「力の偏在」によって秩序を守ろうとするあり方のように映る。それは拡散、発散に対する収束の論理である。その裏には平和という実用、実利があるのはいうまでもない。

抑止力としての核保有とは、大前提として「使用しないこと(させないこと)」を目的としている。核は、その圧倒的な破壊力を特定の場所に偏在させ凍結させることで、他国の行動を縛り、世界を現状維持という一点に収束させる。ここではテクノロジー──インテリジェンスと言い換えてもいい──の拡散、発散はリスクであり管理という収束の姿勢こそが平和の絶対条件となる。

テクノロジーを一神教的な御神託のように独占し、一部に偏らせることで階層的な権力を生みだすという論理は、一部のテクノロジストたちのそれと現在においてもなお通底する。20世紀までの権力とはこの偏在をいかに堅持するかという一点において成立していたのである。

 

相互確証破壊という呪詛

核兵器が国際的なバランスのなかで機能するのは、それがひとつの巨大な統合システムとして完結しているからだ。天才数学者ジョン・フォン・ノイマンがゲーム理論によって導きだした「相互確証破壊(MAD:Mutually Assured Destruction)」という膠着を生む呪詛は、合理的なプレイヤーが自国の滅亡を避けるために互いに動けなくなる「ナッシュ均衡」の極致である。ナッシュ均衡とは、複数のプレイヤーが互いに影響しあうゲームおいて、自分だけ戦略を変えても得をできない状態のことである。「やらなければやられない」という均衡を破っても得るものはないのだ。 

翻って冒頭の議論に戻れば、独創性が均衡を破ることであるとすれば独創性そのものにはなんの実用も実利もない。秩序を撹乱した結果としての罰として実害が与えられるのがふつうだ。数学的な均衡がもたらす平和とは、凡庸な貧しさと退屈さを内包している。ゆえに核保有国の権力はみな凡庸に腐敗してく。防腐剤(エントロピーを収束させる薬物!)まみれで、表面はツヤツヤなのに中身が腐っている果物のように。

人類学者グレゴリー・ベイトソンは『精神と自然―生きた世界の認識論』(佐藤良明訳/岩波文庫)でこう説く。

 

すべての革新的創造的システムは発散する。逆に予測可能な出来事の連続はその予測可能性ゆえに収束する。

 

核抑止とは、まさにこの予測可能性の連続による収束への期待だ。

ベイトソンはまた、学習Ⅰ、学習Ⅱ、学習Ⅲというレベルにわけて人間による世界への対応を説明している。これを用いて稿を進めたいので、簡単に説明しておく。

学習Ⅰとは、個別の具体的な問題を解決することで習慣化や行動のパターン化による学習をいう。これに対し、学習Ⅱは学習Ⅰの問題の背景や文脈、ルールを理解し“学習のための学習”といったメタ視点の学習によるパラダイムの形成でもある。

そして、学習Ⅲは、学習Ⅱで学んだメタルール、パラダイムさえ恣意的なものにすぎないことを突如として覚悟することだ。ここにおいて個人はある種の解脱を体験する。宗教的な回心や神の顕現として表現される状態だ。

文脈を固定し変化を禁じることで成立した沈滞。物質(ウラン、プルトニウム)を封じ込めることで時間を止めてきた核不拡散条約(NPT)の50年とは、世界規模の収束システムの発動であったといえるだろう。

しかし、あらかじめ自己増殖による遍在という目的をプログラムされたAIという「テクニウム(技術的生命)」が、このノイマン的な収束の秩序を内側から食い破る、モジュール単位の発散の原理として立ち現れている。

米国のテクノロジー思想家であるケビン・ケリーが提唱するテクニウムとは、人類が生み出してきたすべての技術、制度、ネットワーク、知識体系の総体を指す概念である。テクニウムは人間に依存して生まれた存在でありながら、一度成立すると自律的に発展し、あたかも生命体のように拡張や多様化を志向する。人間はテクニウムを完全に支配する主体ではなく、その進化に参加し相互に影響し合う共進化の関係にあるとケリーはいう。

AIというテクノロジーはあたかも生物のように人と社会に寄生しながら、自律的に増殖する。無軌道で不確定なそれは発散そのものでありテクノロジーの遍在を促している。

→第3回につづく