創造主なき世界の私たちと延長された表現型としてのAI
第4回 宗教対立の緊張のなかで無神論を主張した科学者たち

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テキスト 都築正明
IT批評編集部

ドーキンスはエッセイ集『悪魔に仕える牧師』で宗教を知的誠実さを損なう装置と断じ、戦争や洗脳、疑似科学を正当化する危険性について批判した。2006年の『神は妄想である』では神を単なる反証可能性のない仮説とみなし、その存在可能性を徹底的に退けた。宗教は人間の認知的傾向の副作用として生まれ、子どもへの信仰強制は虐待だと批判しつつ、利他性や道徳は進化のプロセスとして説明可能だと主張する。世紀をまたいだ宗教リバイバルの趨勢を感じたドーキンスは、無神論こそが理性と科学に基づく豊かな世界観を提供するのだと強調した。

目次

ドーキンスによる神の“不在”証明

ここまでのドーキンスの宗教批判は、自然淘汰を批判する創造説に向けられたものだったが、2003年刊行のエッセイ集『悪魔に仕える牧師』(垂水雄二訳/早川書房)では、真実を追究する科学的思考の擁護や、科学者として戦争や環境問題、教育などの社会課題に積極的に関与する姿勢とともに、宗教への鋭い批判が横溢する。いわく、宗教は知的誠実さを損なうとともに科学的に検証不可能なものを“真理”と教え込む、事実に基づかず、権威と伝統で人々を縛る、子どもに信仰を強制することは洗脳であるだけでなく、子どもに「カトリックの子ども」「イスラムの子ども」というレイベリングを行う、宗教は戦争・テロ・差別を正当化する装置として機能するとともに聖典や教義に従うことで残酷な行為すら正義化される、宗教は科学的思考を拒絶して“創造科学”のような疑似科学を正当化する、宗教が道徳を独占するのは誤りであり道徳は進化や社会的協力から説明できるため神学的基盤を必要としない、宗教は「信じろ、疑うな」という態度を奨励して批判精神や自由な探究を阻害する――。この書名は、ダーウィンが友人に宛てた手紙で、自分の進化論的考察を「悪魔に仕える牧師のようだ(A Devil’s Chaplain)」と称したことに因んでいる。2001年のアメリカ同時多発テロへの言及もあり、この災禍がドーキンスをして科学啓蒙家として、また新無神論(New Atheism)の旗手としての自覚を強くさせたことは想像に難くない。ちなみに同書には長年の論敵だったスティーヴン・ジェイ・グールドの訃報に際し、彼をよきライバルとして称える文章も所収されている。

新無神論の騎士(ホースマン)としてのドーキンス

2006年に刊行された『神は妄想である』(垂水雄二訳/早川書房)は全面的に宗教批判を展開する攻撃的かつ体系的な無神論のマニフェストだった。

あらかじめ当時の国際政治状況について触れておくと、2001年のアメリカ同時多発テロ以降、イスラム原理主義と暴力との関係が最大テーマであり、2001年から勃発したアフガニスタン戦争と2003年から開始されたイラク戦争は、宗教と政治の衝突を世界に可視化した。2001年から2期にわたったジョージ・W・ブッシュ政権はキリスト教福音派の支持を背景に成立しており、中絶禁止やLGBTQ+への忌避感、干渉的道徳など宗教的価値観が政策決定に強く影響した。またカンザス州教育委員会によるID論導入論争も2005年のできごとである。ヨーロッパでは移民増加によるイスラム教徒コミュニティと世俗社会との緊張が高まったほか、偶像化が禁止されているイスラム教の預言者ムハンマドを風刺したイラストをデンマークの新聞社が掲載したことが暴動を含む抗議活動を引き起こしたのも2005年から2006年にかけてのことである。長らく世俗化していた宗教が、アメリカや中東では復権しており、これをどう扱うかは当時の知識人の間では喫緊の課題だった。「シンギュラリティはより近くなっているのか」でも“新無神論の四騎士(フォー・ホースメン)”と呼ばれるリチャード・ドーキンス、ダニエル・デネット、サム・ハリス、クリストファー・ヒッチェンズの名を挙げたが、それぞれのスタンスは異なっている。ドーキンスは進化論において攻撃的に神仮説を否定したのに対し、デネットは哲学者として宗教を進化や文化の枠組みで冷静に説明する態度を貫いている。神経科学者であるハリスは宗教を心理的・政治的病としてイスラムを批判するトーンが色濃く、ジャーナリストであるヒッチェンズは歴史的・社会的害悪を列挙して宗教全体を徹底的に攻撃しようとする。

日本では、1995年の地下鉄サリン事件の余波からカルトについては警戒が引き続いているような状況だった。現在は東日本大震災のインパクトに上書きされている印象もあるが、海外では現在でも“Tokyo Sarin Attack”として類稀かつ重大なテロ事件として語られることが多い。筆者個人は、1995年3月20日当日に茅場町にあった取引先に直行する途中、切迫した声で急に面談の中止を告げられ、被害者の1人になった可能性を知って背筋が凍る思いをしたことを色濃く記憶している。このテロを実行したオウム真理教はパソコン販売でも収益を上げていたが、もしインターネットが普及していた時代に同様のことが企てられたと想像すると、卒然とする思いである。

ドーキンスは同書において宗教について、まず神を科学的仮説であると措定したうえで、神が宇宙に介入して世界に影響を与える存在と定義すれば、それは検証可能な仮説であるが、しかしそこには科学的根拠がなく、存在する可能性は極めて低いとしてこの仮説を退ける。グールドはこの仮説について、どこからやってきたのかわからないが突然現れてすべての理想や願望をかなえてくれる“究極のボーイフレンド”を願望するようなもので、神の存在証明を行おうとすると無限後退に陥ると手厳しいユーモアで断罪する。ではなぜ宗教が生まれるかという問いに、ドーキンスは人間の因果関係を見出そうとしたり、権威に従いたがる認知的傾向の副作用的であるとして、宗教は親や大人への服従の心理を利用して存続するとしたうえで、子どもに特定の宗教アイデンティティを押しつけるのは児童虐待であるとまで断じる。このあたりは国内でも問題視されている宗教二世・三世の問題にも適用しそうだ。またドーキンスは、宗教なしでも人間は道徳的でありうることを主張し、利他性や協力は進化生物学的に説明できるとする。これについては『利己的な遺伝子』『遺伝子は不滅である』においても主張されているので後述する。一方、旧約聖書の暴力的規範など宗教道徳の危うさについても指摘し、聖典に基づく道徳は残酷で一貫性がないと主張する。

終章でドーキンスは積極的無神論(atheism) を推奨し、宗教を批判しないまま世俗的慣習として放置する態度を改めるべきであり、無神論は虚無ではなく、人間の理性と科学に基づいた豊かな世界観を提供できるものであることを強く主張する。

悪魔に仕える牧師

リチャード・ドーキンス (著)

垂水 雄二 (翻訳)

早川書房

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神は妄想である―宗教との決別

リチャード ドーキンス (著)

垂水 雄二 (翻訳)

早川書房

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