文化的接木と連想の果て
第5回 誤訳の創造力――日本思想における接木と接地
日本人が西洋思想を翻訳し理解しようとする営みは、単なる言葉の置き換えでは済まされない。身体感覚に根ざした「意味の接地」がなければ、本質には届かない。その一方で、誤訳や誤読の連鎖が思わぬ創発を呼び、日本独自の思想や表現を育んできた。鈴木隆美が指摘する「文化的接木」という現象を手がかりに、翻訳が孕むオリジナリティの力を考えてみたい。
目次
日本人にとっての「記号接地問題」
記事の執筆の方法として「連想だけがある」と#1のリード文から引用しておいたが、わたしの方法は門外漢の自由さであれやこれやを繋げて、アカデミックには許されないような異分野への架橋を無防備に行なって、概念と概念、思考と思考を並べてその間隙に生じたものを見つけることが主だ。そのためには誤読も恐れずに読みながらそこに書かれていることに創発され、そこに書かれている以上に立ち入って創造するような方法だった。
#43「小林秀雄とエリック・ホッファー 機械文明と大衆、そして労働について」で、小林秀雄のランボー翻訳が誤訳と誤読だらけであることについて非難めいて書いたが、同時にそこから創発される独自性が若者を惹きつけたことにも触れておいた。
小林のランボーと並べてはいけないかもしれないが、わたしの記事も多分に翻訳めいている。ここでいう翻訳とは誰かの思想を自分の言葉に置き換えるという意味だ。そしてそれはおそらく誤訳に塗れている。
いや、誤訳といえばきついのだが、こうした”言葉の置き換え”はメタファーやアレゴリーでもある。抽象的な事象を具体的な出来事に喩えたり、抽象的な概念や思想をわかりやすいキャラに仕立てて物語ったりするのも翻訳である(ネット掲示板で「それをガンダムにたとえて」なんて書き込みをよく見る)。
福岡大学人文学部フランス語学科教授、鈴木隆美の『誤読と暴走の日本思想 西周、福沢諭吉から東浩紀、落合陽一まで』(光文社新書)を出たばかりで読んだ。非常に刺激的な本だ。自身がプルーストの『失われた時を求めて』読破に原語で挑んだことから、フランスへの留学時代に味わった言語理解の難しさをこれでもかと述べる。文化や習慣を体験だけではなくみずから体現できるまでになって初めて理解しうる言語の意味と背後にある思想について、日本語で理解する難しさをAIにおいてよくいわれる「記号接地問題」として論じる。AIの言語(記号)が辞書的な意味を超えて実体に接地しているか怪しいように、西洋の文物を辞書と首っ引きで翻訳したところで、それは実体に接地できないという身も蓋もない論を、さまざまな用語を漢語に翻訳していった西周の昔から、近代を通過していない現代日本と半世紀にわたってポストモダンによる脱構築を進めてきたヨーロッパとは、アンチ・デカルトという共通によって結局のところ大差ないとする落合陽一までの日本の主流な思想家をとりあげる。
誤訳のオリジナリティ
日本人による西洋思想の翻訳につきまとう東洋思想の深い匂い。それはどんなに振り払おうとしても衣服にこびりついている。そのうえに、意味の言い換えだけでは、西洋思想の本当の匂いや手触りには達し得ないという大きな壁も立ちはだかる。
日本人思想家たちは強引に西洋思想を取り込もうとする。その方法を鈴木は「文化的接木」と呼ぶ。繋げるべきでないものを繋いでしまう連想力/創造力が思想の翻訳と輸入を支えてきたのだ。
わたしが思い出したのは、ロックは日本人にはできない。ドラム、ベース、ギターで音を出しても、裏拍のノリは出せずボーカルは演歌のそれになるという、ちょっと昔の音楽批評のことだ。とくにノリとかグルーブ感というのは、現地でデカい音で体験しなければ、本当のことはわからないなんてまことしやかに言われていた。ロックは英語で歌うべきだとか、今にして思えば冗談のような話まであった。
むしろ日本の大衆音楽の膂力のほうにこそ注目すべきだと考えている。#40「鈴木大拙からスチュワート・ブランドへ ホールアースは宇宙技芸論で語れるか?」でもそうした考えを述べたうえで、現在の世界で日本のポップスがブームと言えるほど持て囃されるようになっている点についても#55「『名もなき者』たちのマシーン」で詳しく掘り下げておいた。
日本人にはわからないもの、欧米を模倣するものであったはずのロックを日本人にしかできない別の音楽──仮にアニソンを思ってもいい──にしたのは、衣服に染みついた自分たちの匂いだ。欧米の流行を文化的に接木してできあがった歌謡曲がいつの間にか、誤訳と誤解の発散によって創発現象を起こしオリジナリティを得る。
鈴木は哲学や思想についても同様の現象を見ている。東浩紀に代表されるような日本人思想家のオタク性こそ、日本思想にオリジナリティをもたらしている。象牙の塔に引きこもり、ひたすら誤訳に怯え、他者の誤解を笑う研究者より、このオリジナリティにこそ意味があると鈴木は述べる。
近代の超克においてもそうだが、わたしたちは現行の支配的なイデオロギーの深層にあるユダヤ=キリスト教思想に対峙するとき、武器として握ってしまうのが東洋思想や仏教であった。しかし、それはややもすれば支配的イデオロギーの代替物にしかなりようがなく、既存のイデオロギーを打破しようとするだけ、より支配力を高めてしまう。
打破すべき支配的イデオロギーという“敵”については、ヨーロッパの思想家も日本の思想家も妙に共通してしまうのが現代だ。しかし、根本のところでわたしたちはその敵を掴みきれない。わたしたちは唯一神の歴史と意味を理解できないのだ。だから、どんなに批評を加えても“敵対“はある種のポーズにしかならない。
落合陽一が、このテクノロジーの時代において東洋思想とポストモダンが違和感なく合流すると説く点を鈴木は高く評価している。そこには、日本語の大衆音楽がグローバルに受け入れられていく潮流とよく似た運動が見られるような気がする。
わたしが続けてきた連想とは、つまり鈴木のいう「接木」のことだ。仏教の幹に、ヴィトゲンシュタインの枝を付けてみたというような──。それが何らかのオリジナリティに達することができたのかはいささか怪しい。
5年がかりのハルシネーション
よく和食の料理人が「外国人には出汁の味がわからない」という。
それがこの頃のラーメンブーム。外国人はあのスープの出汁を味わっている。
出汁や香りは身体的にしか理解できないものだろう。レシピ(記号)を翻訳するだけで実現できるものではない。身体への接地がないまま、外部の意味(レシピ)を内部(味覚、嗅覚)に取り込むことはできない。
翻訳の問題についてはベンヤミンが「翻訳者の使命」で論じているが、今回は触れられなかった。「概念と概念、思考と思考を並べてその間隙に生じたもの」を深掘りするというわたしの方法もベンヤミンが言語同士の関係を論じたことに通じているはずだ。ChatGPTの基盤となっているAIモデルが「Transformer」というのも示唆的だ。
翻訳における身体性の問題は思想も同じだろう。外国語に限らないかもしれないが、日本人が有する身体経験では欧米の思想を十全に理解できないだろう。逆もまた然りだ。
わたしはこれまでここで何を書いてきたのか。服に染みついた出汁や香りを通じて、何をしてきたのか。
先にChatGPTに#1〜#59までの記事を要約させて引用した。違和感があると述べたが、ChatGPTが行う要約に潜むのは誤訳に非常に似ている。こういえば過激だろうか。
思想や文化の翻訳こそ、ハルシネーションとオリジナリティの土壌になる。
わたしが書き連ねてきたのは、ある意味で5年がかりのハルシネーションであったのかもしれない。
60回を終えて、一旦、ここで筆を擱くことにする。
誤読と暴走の日本思想 西周、福沢諭吉から東浩紀、落合陽一まで
鈴木 隆美 (著)
光文社
