アントカインドが示す物語の未来
第4回 記録・記憶・AIの未来と『ANTKIND(アントカインド)』

REPORTおすすめ
Author 伊藤 要介
IT批評編集部

私たちがSNSやクラウドを通じて膨大なデータを記録し続ける時代に生きていることに疑いを持つ方はいないでしょう。写真も映像もメッセージも、基本的に消えることはなく保存され、AIによって失われた情報が復元できる未来が見えてきています。そんな時代にチャーリー・カウフマンの小説『アントカインド』は、この流れに逆らうかのように「3ヶ月かけて視聴する映画」が焼失し、主人公が“記憶”だけを頼りに復元しようとする物語です。なぜ“すべてが残り”“復元もできる”時代に、「失われること」が物語になったのでしょうか。

目次

復元技術の進歩と記憶の不確かさ

昨今、復元技術は多方面で想像を超えるレベルで進んでいます。たとえば、MITの研究チームは未開封の書簡を破損せずに“仮想展開”して読み取る手法を報告し、封緘された歴史資料の内容をアルゴリズムで復元する道を開きました。また、DeepMindなどによる古代ギリシャの碑文の欠損補完(Ithaca)は、欠けた文字列の推定・時代・地理的帰属の補助を行うモデルとしてNature誌に掲載されました。さらにMITでは損傷した絵画のデジタル復元に関する研究も報じられ、画像処理と機械学習の応用が広がっています。

映像アーカイブ領域でも、BBC R&Dをはじめ、多くの機関が膨大な映像資産のデジタル化・メタデータ付与・検索性向上を目的とする技術を開発・公開してきました。例えば、映像を意図的な単位(シーン)に分割する「シーン分割」技術といったアーカイブ活用の基盤技術が報告され、検索や再利用への応用が期待されています。それでもアーカイブ化・長期保存には課題が残ります。先述のBBC R&Dの報告でも、権利処理・保存コスト・データ劣化といった制約条件が、すべての映像の完全保存を阻む要因として挙げられています。したがって、技術の進歩があっても、“保存できないもの”という現実が残り得る認識は重要だと思います。

こうしたAIによる復元が進歩する一方で、人間の記憶による復元はどうなのでしょうか。心理学の研究では、写真を撮ることでかえってその場の記憶が弱まるという「photo-taking impairment effect」と呼ばれる現象が2014年に報告されています。同様の研究と報告は2022年PMC(PubMed Central)にも上がっていることから、記録が増えるほど人間の内面的な記憶が薄れる可能性を示唆していると言えるのではないでしょうか。

AIが正確な記録や復元を可能にしたとしても、人間の記憶は主観的で揺らぎやすいままでしょう。『アントカインド』が描くのは、この揺らぎを抱えたまま失われた体験を手繰り寄せようとする姿に映ります。

AIと物語体験のこれから

AIは過去の資料を復元するだけでなく、新しい物語の形式にも関与し始めています。映像の世界では、Netflixの『ブラック・ミラー:バンダースナッチ』は、視聴者の選択で物語が分岐するインタラクティブ作品として注目を集めました。ここではアルゴリズムが分岐の可能性を用意し、視聴者側が選択肢を選んで進んでいく体験が中心となります。

一方、『アントカインド』が描くのは、そうしたクリックして“分岐”を進む体験ではありません。焼失した映画を前に、主人公が頼りにするのは、統計的に「最も正しい答え」を導こうとするAIのような手順ではなく、自分の中に残る断片的で曖昧な記憶です。その記憶を手繰り寄せながら映画を再構成しようとする行為は、精密な復元ではなく、記憶の不安定さを抱えた再解釈と言えるでしょう。

同じ「欠けたものを復元する」行為でも、AI研究の目指す復元の方向性とは異なります。たとえば、古代碑文の補完を目的としたIthacaという生成モデルは、断片から統計的に最も妥当と考えられる文字列を推定し、欠けた情報を埋めようとします。それに対して、『アントカインド』の主人公は、不確かで揺れ動く個人の記憶を手掛かりに、自分だけの物語を再構成していくのです。

どちらも「失われたものに向き合う」試みですが、その方法と体験は大きく異なるのではないでしょうか。AIがもたらす精密な復元と、人間の曖昧な記憶を頼りにする再構成。この差異が、物語を体験することの意味を改めて考えさせるポイントになるのではないでしょうか。

デジタライズや復元、保存、メタデータ抽出などアーカイブ運用に残る、すべてが記録されるわけではないという課題を、BBC R&Dは早くから指摘してきました。欠損や劣化、権利やコストの壁は依然として大きく、“失われるものがゼロになる”とはしばらくの間ならないでしょう。だからこそ、作中の「焼失した映画」をどう記憶が埋めるかというテーマに、現実の私たちも引き寄せられるのではないでしょうか。それは完全な復元と不完全な追想による復元は、似て非なる体験だと言えるからかもしれません。

アントカインド』は、残る記録と失われる体験の間に横たわる差異を、読者の“いま”に接続して考えさせられるように思います。アーカイブやAIの進歩が正確さを高めれば高めるほど、不完全さの余白で働く想像力の価値が際立つのではないでしょうか。

アントカインド

チャーリー・カウフマン (著)

木原 善彦 (翻訳)

河出書房新社

▶ Amazonで見る

ブラック・ミラー: バンダースナッチ

フィオン・ホワイトヘッド, ウィル・ポールター, クレイグ・パーキンソン (出演)

デヴィッド・スレイド (監督)

▶ Netflix公式