MUCA展、「ワーニャ」、「悪は存在しない」
不自由なのか、孤独なのか?
答えのない2つの物語
紙幅がないと言いながら、ふたたび『私たちはいつから「孤独」になったのか』に戻ると、この本では、自由主義経済は自然淘汰、適者生存という概念を人間社会に適用した社会ダーウィン主義を推進したことが繰り返し述べられている。いまでも経営者が、気が利いたふうにいう、「強い者が生き残るのではない。変化する者が生き残る」という誤った話をありがたがっている。この言葉は呪いとなってわたしたちに変化を迫る。あたかも進化論の呪いだ。この呪いがいまだにあちこちに蔓延していることをみれば、社会ダーウィン主義の影響も社会の至るところにあり、それがわたしたちをして現在から疎外させ孤独をもたらすことの一因になっている。
この連載で以前、進化論の呪いについて書いたのは、#17「『ドライブ・マイ・カー』と、ワーニャ伯父さんとダーウィンの進化論」でのことだから、もう2年半を経ている。このときに書いたのは、タイトルにも入っている濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」を巡って、その劇中劇になっていたチェーホフの『ワーニャおじさん』(小野理子訳/岩波文庫)にまで言及した考察だった。
最近、濱口竜介監督と「ワーニャ伯父さん」にまつわる2つの映画を観たので、話をそちらへ広げていく。1つはすでに話題になっている濱口竜介監督の「悪は存在しない」であり、もう1つはナショナルシアターライブの映画「ワーニャ」である。
ナショナルシアターライブ(略称、NTライブ)についてすこし説明しておくと、イギリスの国立劇場であるロイヤル・ナショナル・シアターで上演されている演劇舞台をフィルム撮影し映画館で上映するという企画で、日本ではTOHOシネマズのスクリーンで観ることができる。とはいっても上映館は限られ、上映期間も短いので見逃すと、動画配信はおろかDVD化もないのでどうする手立てもなくなる。そういう意味では演劇的であるし、現在、“流行”の倍速視聴はぜったいに不可能だ。
そのNTライブでこの5月末から上映されているのが「ワーニャ」である。友人が若い頃に演じたことで知って以来、チェーホフの、なかでも『ワーニャおじさん』に強い関心をもってきたわたしは何をおいても観たいものだった。幸いに、その友人がトークショー付きの先行上映を予約してくれたおかげで見逃すことがなかった。
そして、わたしたちは深く感動した。
この「ワーニャ」はハリウッド映画でも活躍する──山田太一脚本、大林宣彦監督の『異人たちとの夏』を翻案した「異人たち」でも主役の──俳優アンドリュー・スコットが一人芝居で演じるのだ。あのワーニャを、だ。あれだけの登場人物、それぞれがバラバラの属性、個性があり複雑な感情の行き来を描く戯曲を、だ。
もともと『ワーニャおじさん』を現代劇にするアイデアで、戯曲家のサイモン・スティーヴンスが翻案したものを稽古中にアンドリュー・スコットがひとりで演じたことから方向転換して一人芝居になったのだと、トークショーで演劇ライターの村上祥子さんが語っていた。
舞台は現代に置き換えられているが大筋は変わらない。もっとも変化が大きいキャラクターは、原作では大学教授だったワーニャの義理の弟でありながらずっと年嵩のセレブリャーコフが、本作では著名な映画監督アレキサンダーとなっていることだろうか。トークショーに村上祥子さんと登壇した東京大学の河合祥一郎教授は自虐めいて「現代では、原作の時代ほど大学教授に権威はないからではないか」と話していたが、おそらく当時の知識人の権威、啓蒙的な存在感というのを現代で求められる職業があるとしたら、それは世界的な映画監督ぐらいしかありえないのかもしれない。
面白いのは、#17で述べた「モスクワのある学者がかつての自分の論を、まったく変節してしまったことをワーニャの老いた母が嘆き、息子に愚痴る場面」は、この翻案ではかつてアレキサンダーを誉めそやしていた評論家が、そのことを後悔しアレキサンダー作品を酷評したという内容に変わっている。わたしはここに示唆を感じたので、すこしふれておく。
わたしが解釈したアレキサンダーはかつて社会派の巨匠でその先鋭なメッセージは政治的にも大きな影響力があった。しかし、政治状況がかわった現代ではアレキサンダーのメッセージはすでにアナクロなものでしかなく、そうなるとちょっとしたセリフにも現代風のポリティカルコレクトの鉄槌が下されて受け入れ難い映画となっているのではないか。もうすこし補足すれば、かつての社会ではひとつの答えでありえた彼のメッセージは、現在では空気の読めない誤答になっている。その場しのぎの答えを求める観客にはもはやアレキサンダー映画は忘れ去られるか、ネタとしてしかありえなくなっている。
わたしはNTライブの「ワーニャ」に感動したのだが、このアレキサンダーの孤独感や疎外感をもうすこしだけ感じられればよかったと考えている。良質な『ワーニャおじさん』においてセレブリャーコフの、忘れられた知識人の孤独は痛いほどに伝わるもので、そのことによってこの戯曲は単純な対立関係とも、加害者、被害者といった色分けも意味をなさなくなり、安易な答えを遠ざける。
近代が求めた──大学教授のような知識人が先導した──啓蒙的精神はしかし現在、答えとして成立しないどころか、有害でさえある。それは啓蒙する者と啓蒙される者という上下を生みだす。
この啓蒙的精神こそ近代の疫病のウィルスに違いない。それは現在ではテクノロジーを理解したふうのインテリたちにも、テクノロジストに敢然と反論とつきつけるヒューマニストたちの両方に通じている。

