新しい「大きな物語」のために
ヒューマニズムを更新する試み
アントロポセンとアントロポス
平は同書で、アダム・スミスの共感の経済学を復権させ、その共感を地球にまで拡大せよという。アダム・スミスは市場原理を最初に論じた人物であるから、やや違和感がなくもないのだが、もともとスミスが倫理哲学者であったことを思えばその根底に現在のような自由主義経済を支持する思想があるとはわたしも思えない。
わたしが思い出していたのは、経済における競争や原理ではなく、互助性や配分を論じたカール・ポランニーのことだった。ポランニーが打ち立てた経済人類学にはマルセル・モースやブロニスワフ・マリノフスキーが研究した、第三世界での経済活動が根底にある。ジョルジュ・バタイユが彼らの研究から普遍経済学をたちあげようとしたように、ヨーロッパの人間観(ヒューマニズム、ホモエコノミクス)を越えようという試みは幾度もされてきた。
人新世はAnthropocene(アントロポセン)の訳語だが、それで思い出していたのが、アントロポスでありフマニタスだ。アントロポスもフマニタスもヒトを指す言葉だが、前者は人類的な生物的な意味での人間であり、後者が人文的、科学的な意味での人々である。もっと簡単にいえば前者が観察対象となる人間であり、後者が観察する側の文明人ということだ。フマニタスはその語源からしてユマニスト(ヒューマニスト、人文学者)であったようにヒューマニズムのことである。ちなみに「Anthropo-」はギリシャ語で人、人類を指す。一方でフマニタス(humanitas)はラテン語であり時代的にはこちらが新しい。なにが言いたいかといえば、ギリシャ的な人類観を古いもの、より野蛮なものと位置付けていることが垣間見られるということだ。
経済学においては、新自由主義を通じて旧来のヒューマニズムによる資本主義の発展の限界を示しているのではないかと鋭く論じるのが、中山智香子の『経済ジェノサイド フリードマンと世界経済の半世紀』(平凡社新書)である。タイトルにあるように、中山はミルトン・フリードマンらマネタリストたちが、南米の政府を経済実験の場にして大きな犠牲を生んだことを指弾する。観察者たるフマニタスと観察される対象であるアントロポスについても重たい論考が展開される。そうして、ポランニーを召喚するのだ──。
わたしたちの未来はどうなるのだろうか。AIや先端テクノロジーは格差を広げるのだろうか。わたしはそう思わない。互助や配分の経済がテクノロジーの“遍在”を促す可能性を思っているからだ。ITカルチャーの根幹にあるオープン革命やテクノロジーの民主化の思想を信じるからだ。
だが、もうひとつ最悪のシナリオもある。冒頭にみたように世界規模で戦争がひろがれば、トマ・ピケティが世界的ベストセラーで解明してみせたように、第二次世界大戦後と同じく一気に格差が縮小し、人口の圧倒的多数を占めるはずの中間層がテクノロジーの福音を享受できるようになるという考えだ。
そんなふうにしか格差が縮小しない、テクノロジーが民主化しないとしたら、なんとも恐ろしい。
やはり、なんとしてもヒューマニズムを更新しなければならない。新しい大きな物語のために。
