遍在するツールとしてのAI、偏在するアクセスとしての格差
DX(デジタルトランスフォーメーション)の本当の未来

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

テクニウム、非物質的な進化

話は変わるが、昨今のサブスクリプションサービスによる音楽配信の普及は、若者に古い曲を発見させその虜にさえしている。古い歌謡曲の歌詞から、若者がなにを思うのか、普遍的なロマンスやセンチメントを受容しているのだろうとは考える。が、しかし、彼らの耳には、異性からの電話を待っている情景や恋人が来ない待ち合わせ場所での動揺などほんとうに理解できるのだろうかと思う。

異性間のやり取りはもっぱらLINEで、待ち合わせなどスマホ片手にその場で調整すればいいという時代に、彼らはこの時代的な情景にまつわる心情をどのように感じるのだろうか。あるいはそうした心情そのものの普遍性になんら違いもなく、彼らは感情移入できるのだろうか。

そんなことをなぜ考えるのかといえば、ビジネスシーンにおいて、いまさらメールを使用しない業務は考えなられないし、検索エンジンなしに何も調べられないし、Officeなしにどんな書類作成もままならない。しかし、これらの変化はほんの25年の間におきたことで、それ以前にはみんな、これらのテクノロジーなしに業務に従事していたのだ。

そして、現在のビジネパーソンの生成AIへの関心をみるに、いずれ生成AIなしにどんな業務もままならない時代がくることが想像できる。それはすぐそこの未来だ。

こうしてみると、生成AIもまたただのツールではある。現在もそういう議論が多い。ツールではあっても、しかし、それは確実にテクノロジーであり、私たちの仕事を変え、生活を変え、社会、文化を変え、最後には存在そのものと同一化する。テクノロジーなどというと、それこそデジタルなものを思い浮かべがちだが、人類史でいえば言語も火熾しもみなテクノロジーだ。人間はテクノロジーと共振しながら進化してきた。

アメリカのジャーナリストであるケヴィン・ケリーは『テクニウム テクノロジーはどこへ向かうのか?』(服部桂訳/みすず書房)で、テクノロジーの進化を自律的なものとして生物学的な進化に擬えて論じる。題名にもなっている「テクニウム」とは、著者はこうしたタームの創作を嫌いながらも提唱する、これまでにない新しい概念だ。テクノロジーやツールは生態系を形成していて、人間の想像力に応じて変化、進化していくという。テクニウムは自然現象の根本であるエントロピー(拡散)に対して、エクソトロピー(収束、秩序化)という性質をもつ。

テクノロジーは人間の想像力や欲望、あるいはそのほかのテクノロジーのさまざまな要素を変数としてうけいれて進化する複雑系であり、それはあらゆる世界、場面に浸透するという偏在性をもっている。テクノロジーは、複雑で遍在しつつ進化しながらひとつの普遍のなかに収束し秩序化をなしていく。テクノロジーの進化は物質を変形させるにとどまらず、情報という非物質的な進化を遂げようとしている。これがケヴィン・ケリーの見立てだ。

わたしは情報という非物質的なものの進化にこそエクソトロピーの本質を感じる。

「テクニウム」の考えに従えば、生成AIはあらゆる人種、国籍、信条をもつ人々のプロンプトを吸収して複雑系のような有機的進化をみせそうだし、あらゆる人種、国籍、信条をもつ人々が多様な用途で使うという遍在性を見せるだろう。ケヴィン・ケリーはテクニウムの概念のなかに「美」をおいているが、プロンプトを「呪文」と呼び、誤った回答をハルシネーション(幻覚)というだけでも、かつての──いや今も、か?──人類が自然についていだいていた神秘性に似た美的な感覚の芽生えをみることさえできる。

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

ケヴィン・ケリー (著)

服部桂 (翻訳)

みすず書房

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