学習院大学法学部教授 小塚荘一郎氏に聞く
(2)データ社会が映し出す社会のかたち
すべてがテクノロジーに代替されるわけでもなく、すべてが法で割り切れるわけでもない
EUでは、日本ではデジタルタトゥーとしてバッシングの種になりがちな個人の過去についても「忘れられる権利」を保証します。
小塚 ヨーロッパでは社会が法に基づいて形成されていますから、人の持つ権利を出発点にします。アメリカではプロセスの自由を絶対的なものとしていて、そこを統制しようとすることへの反発があります。日本が重視するのは、権利でもプロセスでもなく結果です。みんながニコニコして幸せに暮らせることに、日本人はこだわっているのですね。だから不幸せな人が生じる事柄には反発しますし、表面的な不幸がないときには自分のことを知られないことが幸せだということになります。だからこそ、日本で法律をつくるのが難しいのです。
立法意図やプロセスからの積み上げができないということですね。結果を重視すると、今後のことがわからないAIやサイバー空間について法律をつくるのは難しいように思うのですが。
小塚 結果にこだわる日本的な解決としては、法の外側に、法ではない仕組みをつくることで、社会にそのシステムが受け入れられるようにするしかありません。法というのは、基本的にだれが権利を持っているのかという世界ですし、個々の権利をぶつけ合うとアメリカ的なプロセス重視の社会になります。そこから出発すると、権利主張ができない人が損をすることになって、結果満足は得られません。日本的な社会では法で形成される秩序はミニマムにして、その周囲に法とは異なるバッファゾーンを設けるほうが社会に受け入れられやすいと思います。私は、その方法はAIに関してはかなり有効だと思っています。逆説的ですが、もっとも難しいことをしている日本には、AIの秩序について、世界にアピールできる潜在的可能性があると思います。
先生の言葉でいう「身体に合わない既製服」としてヨーロッパから輸入された法律を、日本人がどう着こなすかという話になりますね。
小塚 レッシグは、現代の人々をコントロールする要素として法・規範・市場・コードの4つを挙げていますが、日本は、当初から法律と規範と市場とのズレに苦しんできたのです。最初からズレが生じているので、法でも当初から契約でも割り切れない日本的商慣行があったりします。レッシグが指摘する前は、欧米の法律家はそのズレに気がついていなかったり気がつかないふりをしていたりしたんです。日本の法律家はそこに自覚的にならざるを得ず、常に現実と照らし合わせる必要がありました。そのように考えると、AIの時代に日本の法律家が主張できることは多くなってくると思います。
レッシグは憲法学者としてアーキテクチャを論じたのちに、巨大テック企業の支配を批判しています。先生もご著書で国と企業と法の三項対立を指摘されています。
小塚 アメリカの巨大プラットフォームが国よりも大きく生活に影響することが現実化しました。レッシグのように、アメリカ的な自由競争を尊重する立場からは、国に匹敵するような巨大企業には規制をかけるべきだということになります。中国の考え方はその正反対で、企業が肥大化したら共産党の命令で規制をかけることができます。だからといって、巨大プラットフォームを国が支配することは弱者救済の観点からすると本末転倒なのですが。何が正解かを簡単にいえないのが大前提ではありますが、AIやデータエコノミーにどうアプローチすれば社会に受け入れられるのかを考ると、すべてを法で割り切る考え方には限界があるだろうと思います。リーガルテックの話とも重なりますが、すべてがテクノロジーに代替されるわけでもなく、すべてが法で割り切れるわけでもないのが現代社会です。その割り切れない部分を自覚的に議論しなければなりません。借り物の法制度を導入したことで、そこに以前から自覚的だった日本には、このズレに対処するための経験値があると思います。
そう考えると、各国のデータ社会への規制へのスタンスが明確ですね。EUでは権利を大事にしてGDPR(GDPR:General Data Protection Regulation:EU一般データ保護規則)を作成していますし、アメリカのアシロマ原則は国を問わずに制定されていますが、日本の「AI利活用原則」はリファレンスにすぎません。ここには、市民の権利を保護するEUと、市場への介入を拒むアメリカという図式が明確です。以前、EUではAIに人格権を与える動きもありましたし。
小塚 AIに法的人格権を与えるという動きは完全に否定されて、今後は議論を行わないことになりました。とはいえ、そうした議論が一度は提起されたという点は、いかにもヨーロッパ的でした。