経済学者が取り組むテクノロジーのリスクアセスメント
大阪大学社会技術共創研究センター長・岸本充生氏に聞く(1)

ChatGPTをはじめとする生成AIの爆発的な進化により、AIは人間に脅威を与えるようになっている。国家と企業は垣根を超えての規制やルールづくりに乗り出している。2020年より新しいテクノロジーが社会実装される際に生じうる課題を研究してきたのが大阪大学の通称ELSIセンターである。当センター長である岸本充生氏に、AI実装がもたらす喫緊の課題とは何か、それをどのように捉えているのかお聞きした。

岸本 充生(きしもと あつお)
大阪大学社会技術共創研究センター(ELSIセンター)センター長。大阪大学データビリティフロンティア機構(IDS)ビッグデータ社会技術部門教授。
京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。 博士(経済学)。 独立行政法人産業技術総合研究所、東京大学公共政策大学院を経て、2017年から大阪大学データビリティフロンティア機構教授。2020年4月から新設された社会技術共創研究センター長を兼任。
共著に『基準値のからくり』(講談社)、『環境リスクマネジメントハンドブック』(朝倉書店)、『環境リスク評価論』(大阪大学出版会)などがある。
目次
- 経済学の方法論で環境、安全、健康をアセスメントする
- 個人情報の提供でわれわれは正当な対価を得ているか
- インターネットから画像をスクレイピングして学習に使うことの是非
- バイアスがない状態を目標設定する難しさ
経済学の方法論で環境、安全、健康をアセスメントする
桐原永叔(以下、桐原) 岸本先生は、もともと経済学が専門なのですね。
岸本充生氏(以下、岸本)そうですね。経済学には大きく二つあって“対象”が経済なのか“方法”が経済なのかでずいぶん違います。これは哲学や倫理学や心理学でも一緒です。普通に経済学者というと前者を指して、財政や金融の研究をされるのがメインになります。僕は後者のほうでして、大学院生のときにミクロ経済学の方法、特に費用便益分析に魅せられて、マーケットに乗ってないもの──たとえば環境、安全、健康といった領域を価値づけするようなことをやってきました。当時、環境経済学とか医療経済学とか安全・健康の経済学が出はじめた頃です。当時の自分は就職先があるのかどうかなんて考えていなかったのですが、たまたま工業技術院で社会科学系の人を採用する動きがあって、初の社会科系の研究者として工業技術院に入りました。その後3年くらいで、工業技術院が独立法人化して産総研(産業技術総合研究所)になりました。そこで15年間過ごしました。
桐原 産総研で環境経済学や費用対効果などを研究されていたのですね。
岸本 産総研では経済の専門家として、安全対策や環境対策、健康対策の費用対効果を研究するのがミッションでした。安全や環境のために対策を打つのは当然ですが、やみくもにコストをかけられるわけではありません。費用対効果も考えた効率的な施策を打つための指標づくりが必要だと考えました。例えば化学物質。発がん性の化学物質のリスクを減らそうとしたときに、どのくらいの濃度で摂取したらどのくらいの確率で発がんするというようなリスク評価がないと、対策のコスト計算だけしても意思決定に役に立ちません。当時、誰も手をつけていない分野でしたので、自分でその計算をしないといけないということになって、毒性学や疫学の論文を読んで、(摂取した物質の用量と濃度による生物の反応の関係をみる)用量反応関数を自分で計算したり、工場から出た大気汚染物質がどのくらいの濃度になるかを予想する大気拡散モデルを使って摂取量を予測したりしていました。結局、経済学者として入ったものの、オン・ザ・ジョブ・トレーニングで、いつの間にかリスクアセッサーになってしまい、そういうスタイルで15年やったわけです。その後に、東京大学に特任教授で移りました。
桐原 産総研のなかで文系というのは珍しいのではないですか。
岸本 産総研では初の経済学者なんですけど、他のエンジニアから見たら僕は文系の人なんですよ。だから法律も心理も全部担わされる。文系から見たら工学と理学の違いや、工学の分野ごとの違いがわからないように、理系から見たら文系の分野の違いがわからない。例えば当時、ナノマテリアルの社会受容性のアンケート調査を毎年やろうということになり、僕がそれ全部を担当しました。他に適任者がいなかったのです。あるいはカーボンナノチューブというナノマテリアルがあったときに、化学物質の法規制でどういう扱いになりそうか調べてくれという法律の話も来る。エンジニアの領域外のことも幅広くやっていました。大阪大学でELSIセンター長になって、初めて自分はこれまでELSI(Ethical, Legal and Social Issues=倫理的・法的・社会的課題)*をずっとやっていたんだなということに気がつきました。それまでの伏線が回収されたという感じで、今は天職だと思ってやっています。
桐原 方法としては経済学で、対象として理系的な分野だったということですね。
岸本 そうですね。修士論文や博士論文も大気汚染や安全の問題に経済学の方法をどう適用するかという研究です。今でもそうなのですが、安全の問題とか健康の問題にコストの話を持ち込むのはタブーだったんですね。僕は、それはおかしいと思って、修士論文では人を一人救うのにいくらお金をかけるかというのを、アスベスト対策とがん検診と交通事故対策で計算して比較するという、変なことをやったりしていました。
桐原 面白いですね。
岸本 実際にどれくらい費用をかけているかが分かっても、どれくらいまで費用をかけてよいかはまた別の話です。そこで、社会として人を1人救うのにいくらくらいまでならかけていいのかを推計しました。実は各国に公式の数値があるんですよ。アメリカだったら環境保護庁とかだったら1人あたり10億円とか、運輸省だったら4億円とか。イギリスでも3億円とか算出しています。日本でも、内閣府が交通事故文脈で、僕も委員として参加した検討会で調査した結果を使って2億6000万円くらいの値が出ています。それが一応、日本の唯一の公式の数値ですね。
桐原 命の値段の算出ですね。
岸本 命の値段というと語弊があるので、統計的生命価値(Value of Statistical Life)と言います。統計的生命価値というのは、1万分の1の確率で起こるリスクに対して1,000円のコストをかけられるとしたら、これを1万倍したら1人あたりの統計的生命価値になります。便宜的に1人あたりに換算しただけの値なんです。アメリカではこの値をめぐって人の命を金銭価値化するとはなにごとだという論争が以前から何度も起こっています。誤解を招くから1人あたりに換算するのはやめようという話もあるのですが、日本ではそこまでの論争はまだありません。人の命は地球より重いとよく言われますが、無限にコストをかけられるわけではありません。できるだけたくさんの人の命を救うのであれば、コストを明示化して、ここにもっとお金を費やしたほうがいいとか、ここに移したほうが効果的だということを、本当は議論しないといけません。
桐原 今の話を聞いていて、それこそサンデル教授で有名になった「トロッコ問題」を思い出しました。
岸本 サンデル教授は「ハーバード白熱教室」(NHK Eテレ)のある回でまさにその話をしています。いくらまでなら人の命を救うためにお金をかけていいんだろうかと。彼は学生に具体的な額を答えさせて、理由を問い詰めて学生を困らせていました。サンデル教授は統計的生命価値についてもご存知だとは思うのですが、あえて説明しないんですよね。
*ELSI:ELSIとは、倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal and Social Issues)の頭文字をとったもので、エルシーと読む。新規科学技術を研究開発し、社会実装する際に生じうる、技術的課題以外のあらゆる課題を含む。新規科学技術のイノベーション、すなわち新しい科学技術を社会に普及させ、新たな産業の創造や生活様式の変化にまで導くためには、倫理(E)、法(L)、社会(S)のすべての課題に対処する必要がある。(大阪大学社会技術共創研究センターHPより)
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