東北大学名誉教授 野家啓一氏に聞く
(1)工業化への反省と、テクノロジーに求められる倫理
哲学修行を経て科学哲学の道へ
桐原 学生運動の背景には高度成長をもたらした科学や工学に対する批判や反省がありますよね。
野家 はい、水俣病などの公害問題もありましたから。科学には未来を約束するプラス面だけでなく、表裏一体でマイナス面を持つことを、私を含む当時の学生たちが自覚しはじめました。こういう時代に、知らぬ顔で実験室にこもって物理学をしていてよいのだろうかという疑問を抱きました。
桐原 1980年代ごろから、SF小説や映画では科学のもたらすディストピアが多く描かれるようになりました。私は1970年生まれなのですが、大阪万博で描かれていたような明るい未来が色褪せていく一方で、世の中はテクノロジーでどんどん便利で豊かになっていきました。今の若い人たちはAIやメタバースのようにITとテクノロジーの先に豊かな未来がやってくるという希望を抱きつつ、現実生活に不安を抱いたり期待を失ったりしています。ちょうど私たち世代の裏返しのようです。未来とテクノロジーが同じ夢を見ていない感じがしています。
野家 私の子どものころは「鉄腕アトム」の時代です。鉄腕アトムの妹はウランちゃんという名前です。私たちのころは工学部が一番の人気で、成績のよい高校生はみな工学部を目指していました。多くの大学に原子力工学科ができて、優秀な同級生の多くが工学部の原子力工学科に進みました。科学が明るい未来を約束してくれるということに、まだ疑念を抱かなかった時代ですね。ところが1970年前後から公害問題などが報じられて、必ずしも科学が輝かしい未来を約束しないことや、社会にマイナスの影響を及ぼすことがわかってきました。私が専門を物理から科学哲学に変えたバックボーンにはそうした背景があります。
桐原 哲学研究に移行されるのに、当時はどのような経緯があったのですか。
野家 東北大学の物理学科に在学中に、大学院でこのまま物理を続けるか、哲学の道に進むかを迷いました。そこで1971年に物理学科を卒業してから、1年間文学部哲学科の研究生になりました。当時の東北大学には科学哲学を教える先生はいませんでしたが、細谷貞雄先生のニーチェのツァラトゥストラの演習や、滝浦静雄先生のフッサールの演習に出席して哲学の基礎を学びました。同じ頃、教養部でヘーゲルの自然哲学をご専門にされている本多修郎先生が、教養科目で「自然科学概論」を担当されていました。あるとき本多先生のもとにマッハのドイツ語の原書をはじめ何冊かの文献を借りに伺いました。そのとき、科学哲学に興味があるから物理学から哲学に専攻を変えたいと相談したところ、そんな馬鹿なことはやめろと一喝されました。本多先生のところには、毎年何人か“文転”を志す理系の学生が相談に来ていたそうですが、文転して成功した学生は1人もいない。私もその二の舞になるから、真面目に物理の勉強をしろと叱られました。ただ、その後も何度か本を借りにいったり、話を伺いに行ったりしていました。するとある日、東京大学の理学系大学院に新設された「科学史・科学基礎論」専攻のパンフレットを渡されて、1年間勉強してから受験するよう勧められました。翌年1972年に大学院に入学を許可され、物理学から哲学に転向した先達である大森荘蔵先生や科学史・文明史の専門家である伊東俊太郎先生のもとで本格的に科学哲学の勉強をはじめました。
桐原 周囲の方々の反応はどうでしたか。
野家 周囲の友人たちからは、とんでもないことをする奴だと思われました。東北大学は理工系中心の大学ですし、文系が格下にみられる傾向もありました。“文転”する学生も私の周囲にはいませんでした。ただ理学部の2学年上には数学専攻の佐々木力さんがいて、大学院生のときに雑誌「思想」に数学史や科学論関係の論文を発表していました。彼は東京大学の大学院で伊東俊太郎先生のもとで1年間研究生をしてからプリンストン大学の科学史科学哲学コースに留学されたのですが、私も数年後にフルブライト奨学金を得てプリンストン大学に留学することとなりました。プリンストン大学では佐々木さんと再会して、さまざまなことを教えてもらいました。