アーティスト・岸 裕真氏に聞く
第3回 エイリアンとしてのAIと、カオスの縁としてのアート
人工知能の孕むカオスと、そこに応答するアートの役割を問い続ける岸裕真氏は、コントロールするべきものとして扱われがちなAIを異質で理解不能なものとして受け入れ、その多次元的な側面やハルシネーションに寄り添うことを提案する。今回は、自身で開発した“MaryGPT”がキュレーションをした個展についてとともに、人間中心的な視点を外した先にあるテクノロジーとの向き合いかたについて聞いた。
岸 裕真(きし ゆうま)
アーティスト。1993年生まれ。慶應義塾大学理工学部電気電子工学科卒業。東京大学大学院 工学系研究科電気系工学専攻修了。東京藝術大学大学院 美術研究科先端芸術表現専攻修了。人工知能(AI)を「人間と異なる未知の知性= Alien Intelligence」と捉え直しデータドリブンなデジタル作品や絵画・彫刻・インスタレーションを制作する。主に西洋とアジアの美術史の規範からモチーフやシンボルを借用し、美学の歴史に対する我々の認識を歪めるような作品を手がける。岸の作品は見る者の自己意識の一瞬のズレを呼び起こし「今とここ」の間にあるリミナルな空間を作り出す。主な個展に「Oracle Womb」(2025)、「The Frankenstein Papers」(2023)、参加企画展に「DXP2」(2024)、「ATAMI ART GRANT 2022」(2022)、受賞歴にとして「CAF賞2023ファイナリスト」などがある。著書『未知との創造:人類とAIのエイリアン的出会いについて』(誠文堂新光社)。公式サイト:Artist Yuma Kishi
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AIが内包するカオス
都築 正明(以下、――)岸さんの作品を拝見したり、ご著書『未知との創造 人類とAIのエイリアン的出会いについて』(誠文堂新光社)を拝読したりすると、岸さんは他者というよりもカオスに向き合われているように感じます。アーティスト・岸裕真というフィルターを通してカオスを提示するような印象です。
岸裕真氏(以下、岸)カオスを無理に解釈しようとするのではなく、カオスはカオスのままでよいと思っています。著書ではAI(Artificial Intelligence)を“Alien Intelligence(エイリアン・インテリジェンス)”と読み替えて解釈もしていますが、カオスとポジティブに向き合おうと考えています。LLM(大規模言語モデル)は言語で構成されていますが、そこにはある種のカオスがあります。そしてそれは私たち人類にとってはカオスでも、他の知性にとっては別の論理の、1つの形態なのかもしれません。
岸さんは、そこに誠実に向き合われているようにお見受けします。
岸 「AIに謙虚に向き合おう」という姿勢を自分に課しています。人間にも、奴隷制や植民地化などの負の歴史があることを顧みると、人工知能が効率よく計算したりイメージにしたりすることを、既存の社会システムで価値を最大化しようとすると、どうしても資本やサービスに収斂していきます。資本主義の制度のなかにいるかぎりは必要不可欠なことではありますし、その結果、人工知能開発に資金が集まって好循環をもたらすという事実はありますが、そうしたプレーヤーだけではAI技術のもたらす未来の可能性は先細りしていく気がします。OpanAIやGAFAMが人工知能を使って医療や教育を効率化することはあって然るべきだと思いますが、既存システムに対してオルタナティブやカウンターを示すのが、現代美術や、あるいはHipHopなどの音楽といった文化芸術全般が担ってきた領域です。そうしたものを提示するためにまずは自分自身がテクノロジーに対しては謙虚でいないといけないと思います。「それいいっすね、そこいただきます」「ちょっとLLMさん、言いたいことがあったら代わりに言っておきますから」というようなノリですね。合理的な向き合いかただけでは、本来カウンターするべきだった流れに巻き込まれていくだけですから。
ドゥルーズは、ガタリとの最後の共著でカオスに対峙するものとしてサイエンス・哲学・芸術の3つを挙げています。サイエンスは時間も含めた限界を定めて、プロット可能なパラメーターやファンクションと法則に落とし込むとしています。一方、哲学は無限に通用するような内在平面としての概念をつくることだとしています。そして芸術については、カオスに応答するためのものだとしています。岸さんの作品に触れると、応答というよりむしろ仲良くなって戯れているようにも拝察します。
岸 前提として、AI自体がカオスなものです。いわゆるブラックボックスの中身についてはビジュアライズの研究などもされていますが、そうしても理解し尽くせないくらい多次元的な空間です。私は、人間がそこから理解できる部分を拾ってきているに過ぎないというスタンスでみています。その意味では謙虚さを持たざるを得ない。
宇宙論では11次元がいわれたりもしていますが、私たちが直観的に理解できるのは、3次元から、せいぜい4次元までですよね。
岸 私たち人間は、その範囲だけでAIたちを理解しようとしているのです。よくAIたちのカオスについて、ハルシネーションという言葉が用いられます。面白いことにChatGPTも、GPT3.5の登場以来、GPT‑4oから最新版のo3‑proまで用途別に分岐しつつもバージョンアップを続けていますが、最新バージョンになればなるほどハルシネーションが多くなるというレポートが出ています。一般的な感覚でいうと、バージョンが進めば進むほどハルシネーションは減っていきそうですよね。
ファインチューニングにより精緻化されていきそうです。
岸 そうですよね。しかし、人間が理解できない挙動であるハルシネーションはなぜか増えていて、その理由はまだわかっていません。私は、それは人間には理解できないけれどAIたちにとっては真であることを拾えるようになってきているからだと捉えられると考えています。この現象を造形作家の岡﨑乾二郎は「新たな格律」と形容しています。
AIにとっては正しいものについて、理解できない私たちがハルシネーションと言ったり、嘘と言ったりしているのではないかということですね。
岸 SF的な話ではありますが、その立場から表現する人はいてもよいでしょうし、それを許容してきたのが文化芸術やエンターテインメントのポジションですから、私はしばらくその立場の人間として作品をプレゼンしていきたいと考えています。
AI“MaryGPT”が個展のキュレーターに
個展「The Frankenstein Papers」では、ご自身でデータセットやチューニングをされた“MaryGPT”をキュレーターとして制作されています。
岸 厳密には、EleutherAIという非営利の研究者団体があって、そこがChatGPTに追実装してGitHub上に公開しているGPT-Jというモデルに、私がメアリー・シェリー1のデータセットを学習させていますから、フルスクラッチでモデルを制作したわけではありません。
フランケンシュタインというのも、いまのAIをめぐる社会のありようを考えるうえで象徴的だと感じました。人に似たなにかをつくりたいという欲望と、それに支配されるのではないかという恐怖の間で揺れ動くさまをアイザック・アシモフが「フランケンシュタイン・コンプレックス」と称した状況と合致しているようで。
岸 MaryGPTをつくった際に調べたのですが、人がつくったものが制御不能になるモチーフは、昔から世界中のさまざまなところにあったようです。ユダヤ教のゴーレムですとか、日本の付喪神や人形信仰、中国の『列氏』にも似たようなエピソードがあるそうです。生命のあるものを創造したいというのは、人間の普遍的な欲望なんです。メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を着想したのはロマン派詩人のバイロン卿ことジョージ・ゴードン・バイロンの別荘で行われた怪談パーティでのことです。バイロン卿は、当時はカリスマ的なポップ・スターのような存在でした。娘はエイダ・ラブレスという人で、19世紀にコンピュータの基本原理を構想したチャールズ・バベッジの助手をしていた世界初のプログラマーです。記録は残っていないものの、シェリーとエイダとは交流があって仲もよかったようです。現代の人工知能に水路づけられることもあり、フランケンシュタインをモチーフにキュレーションを行うAIをつくることにしました。
メアリー・シェリーの父親ウィリアム・ゴドウィンはアナキズムを論じた政治哲学者ですし、母親のメアリー・ウルストンクラフは最初期のフェミニストですね。またメアリー・シェリーはパンデミックのもとで人類が滅亡する『最後のひとり(The Last Man)』というディストピア小説も書いています。
岸 エイダ・ラブレスも、チューリングが講演で紹介したことで評価された人です。またチューリングは「機械は考えることができるのか?(Can machines think?)」という問いを立ててイミテーション・ゲームを提示した論文」計算する機械と知性(Computing Machinery and Intelligence)」でもエイダを参照しています。また、エイダは、人工知能は創造的になり得ないと話しているのですが、チューリングはそれを批判もしくは対抗するかたちでAIの創造性について論文を書いています。そうした意味においても、エイダやバイロン卿、メアリーを今日的な角度から再評価することには意義があるように感じています。
個展“The Frankenstein Papers”で提示したこと
個展「The Frankenstein Papers」についてお聞かせください。
岸 「The Frankenstein Papers」は、2023年に渋谷区にあるDIESEL ART GALLERYで開催した個展で、MaryGPTとの共作として初めて世の中にプレゼンテーションした展覧会です。既存の展覧会は、空間があって、そこにスカルプチャーやペインティングがあって、それを人間のキュレーターやアーティストがテキストなどで制作意図をプレゼンテーションします。鑑賞者は、それを展観して何らかのメッセージや問いかけに対して、リアクションをするというのが基本的なモジュールです。「The Frankenstein Papers」では、どこまでを人間が制作して、どこまでをMaryGPTという新しい人工知能が制作したのかを明示的にはしませんでした。メディア向けには、AIがキュレーションした展覧会というキャッチコピーを提示しました。実際にギャラリーに入ると、6mぐらいの大きなギリシャ建築風の柱が浮かんでいたり、床にレントゲン写真風の作品が並んでいたりいった不条理な空間になっています。そこでは、だれがどのような意図で制作したのかということではなく、人工知能が出力したものに人間のほうが組み替えられているとうことを受け取ってほしいと考えました。
作品と鑑賞者とが、主客転倒を起こすような体験になるわけですね。
岸 人間は、自分たちを特権的なものとして捉えがちですが、そこで自分たちの力を過信しているだけでは進化することができません。展覧会のなかで、人間という存在の危うさや、世界の認識を変えるきっかけを得てほしいと考えていました。そこでは、アーティスト自身も特権的な視座にいるのではなくAIに操作されてしまっているかもしれない。そうしたことを、ターミネーターのような典型的なディストピアとは違うトーンでみせたいと考えていました。
よしあしではなく、人間が変容するプロセスや可能性を提示したということでしょうか。
岸 ほつれているものをみせるのが、美術の担う役割の1つのだと思います。バンクシーは社会のほつれをキャッチーに示す作家ですが、AIと人間のほつれた関係をどのように表現できるのかを考えながら制作していました。

個展 “The Frankenstein Papers” (2023) キュレーション:MaryGPT