ハイデガー、レヴィナス、木田元──哲学が照らすAIの倫理と技術の“自己運動性”
AIは人間を超えるのか?──ジェフリー・ヒントンが語る“制御不能な未来”
テクノロジーがつくりあげたヒューマニズム
この連載では、何度もテクノロジーと倫理の問題を扱ってきた。科学と技術が重なり合ってしまうこと、目的と手段が曖昧になってしまうといった論点であった。日本においては近代化の際に、科学と技術がひとつのものとされたせいで、技術そのものが目的化していった歴史がある。それは、本来は手段であるべき技術が目的となる理念を見失ったことで倫理を失ったのではないかという読み解きだ。まず目的があって手段があるという秩序としての倫理が剥落していったのではないか、と。
しかし、技術はそもそもそれ自体で何らかの目的に適合する手段として出現するわけではないことは前回、技術において手段は目的と化すという哲学者ハンス・ヨナスの議論を引いて触れた。
その後、私はもう1つ重要な論に出会っていたことを思い出した。哲学者の木田元が1990年代に述べた言葉だ。これは現在、『対訳 技術の正体』(マイケル・エメリック訳/デコ)で読める。訳者の名があるのは、木田の言葉に英訳を付す特殊な構成のためだ。
木田の言葉を読んでみよう。すこし長めに引用する。
人類の理性が科学を産み出し、その科学が技術を産み出したという、この順序に間違いはないのであろうか。しかし、ギリシアの詩人が不気味だと恐れていたのは、人類の理性の所産である科学技術などではなく、ただの技術である。科学が技術を産んだというのは間違いではないか。むしろ、技術が異常に肥大してゆく過程で、あるいはその準備段階で科学を必要とし、いわばおのれの手先として科学を産み出したと考えるべきではないだろうか。
そして、その技術にしても、人類がつくり出したというよりも、むしろ技術がはじめて人間を人間たらしめたのではなかろうか。原人類から現生人類への発達過程を考えれば、そうとしか思えない。火を起こし、石器をつくり、衣服をととのえ、食物を保存する技術が、はじめて人間を人間に形成したにちがいないのだ。
技術はそもそも科学から独立しているばかりか、先行して人類を生き存えさせてきたのではないか。人類は生きるために技術を求め、むしろ技術のために科学を求めたのではないか。木田はそう喝破する。私の言葉でいえば、テクノロジーがヒューマニズムを生み出したのかもしれない。
木田のこの本を思い出したのは前回の記事でナチスのために効率的な殺人トラックを発明したポルシェ博士のことを書いたせいだ。そのことを初めて知ったのは木田のこの本だったのだ。
技術が科学を求めたのであれば、人間の理性をもとにする科学など後付けのものでしかない。そうだとすれば、人間の理性が技術を制御することができるのか。ヒューマニズムがテクノロジーを支配できるのか。そんなことは人間の思い上がりではないのか。木田はそう論じる。技術の“正体”とはそういうものだ、と。
テクノロジーは自己運動する
ChatGPTがもたらした衝撃によって俄かに喧しくなっているのは、まさにAIテクノロジーの制御の問題である。前回もふれたようにイーロン・マスクがAI開発の停止を提起したり、ヒントンのように警鐘を鳴らすことに舵をきった研究者もでてきたりしている。もちろん、政治の側でも率先してグローバルなガイドラインの策定に急いでいる。
今月21日まで広島で開催されていたG7サミットでも画像生成やチャットボットなどのAIテクノロジーへの適切な議論を進めるために「広島AIプロセス」を立ち上げることに、各国首脳が同意した。
広島でのサミットに先立って行われたG7群馬高崎デジタル・技術大臣会合でも「責任あるAIとAIガバナンスの推進」について議論された。一気呵成に進化を遂げてしまったChatGPTをはじめとするAIテクノロジーに対する潜在的なリスクの国際的な管理が焦点になっていることが見て取れる。
広島でも高崎でも、AIを脅威とする倫理的な問題だけが話し合われたわけではない。むしろ著作権管理や市場の活性化など経済的な議題が重点的に話し合われた印象がある。まるで原子力のようにAIを国際的に管理する動きがあるようだ。しかし、木田ではないがそれはまた虚しいことにも感じられる。
木田は技術は自己運動、自己展開するものという。次から次へとその可能性を無制限にひろげていく技術を人類が制御することなどできようはずがない。
自己運動、自己展開を「オートポイエーシス」と呼ぶこともできるだろう。もともとチリの生物学者コンビが生命の有機性を解き明かすために使用したものとして有名な言葉だ。ギリシャ語の「自己(オート)」と「制作(ポイエーシス)」を組み合わせた造語である。
木田が自らの技術観には哲学者マルティン・ハイデガーの影響が大きいと述べている。ハイデガーは『技術への問い』(関口浩訳/平凡社ライブラリー)で技術について「ポイエーシス」という言葉をつかっている。ハイデガーは技術を自然の裡に隠(伏蔵)されたものを明るみに(開蔵)することだと論じる。
テクネーはただの手仕事に関する名称ではなく、高度な技、すなわち芸術のための名称でもあった。テクネーはポイエーシスの一種であり、それゆえ詩的なものなのだ(詩=ポエジー)
ハイデガーは技術(テクノロジー)の語源をギリシャ語に遡り、それがテクネーであることを改めて指摘して、テクネーが芸術のための言葉であると指摘する。テクノロジーは制作であり、制作は芸術であるのだ。芸術は秘められた真実を明るみに出す(開蔵)ことだ。ハイデガーは中世ドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンを引用しながらそう論じる。
しかし、ハイデガーのこの論でより重要なのは、現代の技術(テクノロジー)が制作(ポイエーシス)を離れてしまっている点だ。現代の技術は用立てを得ることでかえって自然のなかに秘められていた真実を隠蔽してしまうというのだ。用立て、つまり目的をもつことだ。そして用立てを得ることで、技術は人間さえも労働力という手段に変える。非常に難解なのだが、私がハイデガーの論から読み取るのはそのことだ。
現代のテクノロジーはひたすら可能性を追求することで、ほとんど無限的に自然を用立てしていき、人間さえも目的に適う存在としてしか“存在”しえなくしてしまう。存在の問題が科学と絡んでくるのは、まさにこの点でだがこれはまた別の話だ。紙幅がない。
オートポイエーシスと化したテクノロジーを人間が制御できるのか。それができなければ、ハイデガーが晩年のべたように技術文明は崩壊してしまうのか。
オートポイエーシスとは生物学の言葉だ。生命の有機性を論じるために生まれたタームだ。AIは生物学の教養をもとに脳神経のシナプスの接続を再現しようとしたものだ。ほとんど、自己運動的に進化しはじめたAIもまたオートポイエーシスそのものである。だとすれば、AIに用立てされる人類さえ見えてくる。

