官僚主義と“善”の陳腐さ
映画『生きる-LIVING』は名画か?

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

官僚的陳腐さ、未来への責任

前回の記事で倫理を論じるなかで、倫理とは時間的な秩序であると言った。時間的な秩序はそのまま有限な生命のことであり、『生きる』も『生きる-LIVING』も、まさにみずからの命の限界を知り公共善に目覚める人物が主人公であるし、主人公に感化されてわずかながら倫理に目覚める人々が登場する。

前回、時間的な秩序と同時に手段と目的の履き違いについても論じたが、生きる手段だった仕事が生きる目的になっているともいえるわけだ。

この手段と目的についてよく似た議論をハンス・ヨナスがしていたことを知ったのは前回の記事を書いた後である。ハンス・ヨナスはユダヤ人哲学者でハイデガーの弟子という捻れた人であり、もう一人の捻れた人ハンナ・アーレントの仲間である。

映画『ハンナ・アーレント』で、アドルフ・アイヒマンを「悪の陳腐さ」という表現で記事にしようとするアーレントに反対するシーンでも、ハンス・ヨナスは重要な役回りだ。アーレントが結局、『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(大久保和郎訳/みすず書房)を書き上げたのはつとに有名だ。

アドルフ・アイヒマンも単なるナチスの官僚であるゆえに陳腐であった。アイヒマンは官僚的な真面目さで大量殺人の効率化を認める書類にサインし続けた。

その意味では、なんでも後回しにする、余命を知る前の志村喬やビル・ナイの官僚よりも真面目であったし、志村喬やビル・ナイの官僚が成し遂げたものは、アイヒマンを評したアーレントに倣えば“善”の陳腐さそのものだ。

官僚仕事には本来の意味での目的が欠けている。手段の特化だけが目的に入れ替わる。事物に個別性をもたらす目的がなければ、それは陳腐だ。

戦時中の官僚たちの生真面目さが地獄への道をせっせと舗装したものであれば、戦後まもない時期に官僚の真面目さには警戒心を抱かなかったろうか。

これが先に「反対派の逆風も強い」といったことの正体だ。この警戒は、ちょうど学生運動に参加した学生たちが真面目な学級委員タイプが多かったことから、その後、我が子が学級委員長になることを親たちが警戒したのと同じだ(そうして70年代以降、正義やヒューマニズムは冷えていった)。

もしアイヒマンが死期を知る前の渡辺勘治のように、ユダヤ人関連の書類をデスクの端に追いやっていれば、どれだけか命が救われたのかもしれない。

役所の苦情係に殺到する主婦たちが屋根裏のユダヤ人家族をなんとかせよと訴えると翻案して、舞台を1941年(『生きる』のたった12年前だ)のベルリンにしてみればかなりなブラックコメディになるだろう。

ハンス・ヨナスは技術と倫理について、技術において手段は目的と化すと論じたという。私は『ハンス・ヨナスの哲学』(戸谷洋志著/角川ソフィア文庫)でそれを知って膝を打った。まさに私がテクノロジーについて考えてきたことのひとつの答えであった。

ヨナスは技術というものは必ず実現を求めるもので後戻りしないものと言い、技術は手段として生まれながらすぐに目的になるという。だからこそ技術にはそもそもの初めから倫理が必要なのだ。

技術の目的は、手段として技術が生まれるまでは明瞭ではない。だから、できあがってすぐ技術が求めはじめる目的の、さらに先にある結果については責任の所在が曖昧になる。

わかりやすくいえば、いま現在のゲノム編集であれAIであれ、テクノロジーの可能性が勝手に目的を生成してしまう。だが、テクノロジーが人類に与える影響は人間の一生程度では計測できない。

ゲノム編集でデザインされた遺伝子からどのような人類が誕生するか、重大な結果が現れるのは何世代も先のことかもしれないのだ。

私は前回の記事に足りなかった論点に気づいた。テクノロジーに時間的な秩序を求めることの困難さだ。ヨナスのいう「未来への責任」もつまるところ、時間的な問題なのだが、それは人間には果たし得ない責任であり、倫理なのかもしれない。

倫理は意味をなすのだろうか。

ナチスの強制収容所のために移動式のガスシャワー車を設計し、もっとも効率的な虐殺に技術を注ぎ込んだのはかの世界的自動車企業の創始者フェルディナント・ポルシェだったという話も付記しておきたい。

ハンナ・アーレント(字幕版)

マルガレーテ・フォン・トロッタ (監督・脚本)

バルバラ・スコヴァ, アクセル・ミルベルク (出演)

ポニーキャニオン

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ハンス・ヨナスの哲学 (角川ソフィア文庫)

戸谷 洋志 (著)

KADOKAWA

ISBN:978-4041124079

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