人間の認知の仕組みへの興味からAI研究の道に
国立研究開発法人産業技術総合研究所 人工知能研究センター長 辻井潤一氏に聞く(1)

日本のAI研究黎明期から言語処理にかかわってきた辻井氏に、XAI(説明可能AI)が出てきた背景と現在の動向と未来における可能性について伺った。1回目は、研究をスタートさせた京都大学の学問を取り巻く環境、それはまた東京大学とはことなる風土にまで話が及んだ。氏の半世紀に及ぶAIへの取り組みは、人間の認知機能への興味が根底にあるという。

辻井 潤一(つじい じゅんいち)
情報科学者。国立研究開発法人産業技術総合研究所人工知能研究センター長。
1973年京都大学大学院修了。工学博士。京都大学助教授、1988年マンチェスター大学教授、1995年東京大学大学院教授、2011年マイクロソフト研究所アジア(北京)首席研究員等を経て現職。マンチェスター大学教授兼任。
計算言語学会(ACL)、国際機械翻訳協会(IAMT)、アジア言語処理学会連(AFNLP)、言語処理学会などの会長を歴任、2015年より国際計算言語学委員会(ICCL)会長。
紫綬褒章、情報処理学会功績賞、船井業績賞、大川賞、AMT(国際機械翻訳協会)栄誉賞、ACL Lifetime Achievement Award、瑞宝中綬章等、受賞多数。
目次
京都の学際的な風土でAI研究をスタート
桐原永叔(以下、桐原) はじめに、辻井先生がAI研究にかかわられるきっかけからお聞かせください。
辻井潤一氏(以下、辻井) 大学へ入っていろんなことをやりだした頃は、まだ情報科学とか計算科学はそれほど大きな分野にはなっていませんでした。
桐原 1960年代の終わりぐらいですね?
辻井 1967年に大学に入って、研究者になったのは1970年くらいだと思います。工学部で電気工学を学んでいたのですが、もともと人間に興味があったんですね。その当時の計算科学には方向性が2つあって、いわゆるハードコアの計算科学と、今でいう人工知能的な研究、すなわち、人間が情報をどう処理しているかという人間との絡みをやる部分の研究です。京都大学はどちらかというと後者のほうの研究が盛んでした。最初の頃にやっていたのは、今でいうチャットボットみたいなもので、テキストをたくさん計算機のなかに入れておいて、いろんな質問をされてもちゃんと答えることができる質問応答システムの研究をしていました。今では実用化されてきている技術ですが、その当時は計算機も小さいし、技術的にも成熟していなかったので、かなり無理な研究分野だったと思います。その技術が非常に難しいことだということが分かってきて、機械翻訳の分野に研究テーマを移しました。
桐原 京都大学で研究をスタートされたということですが、以前に松原仁1先生にインタビューした際に、当時の東大での人工知能に対する偏見に非常に苦しんだとお伺いしたのですが、京大はどうだったんですか。
辻井 東大とは雰囲気が違っていたと思います。東大は伝統的なアカデミアで、人工知能の類いは不謹慎だという感じがあったと思います。京大のほうは、僕の恩師である長尾真1先生とその上の坂井利之2先生という2人の先生を中心にして、視覚や音声認識や機械翻訳といった人間の情報処理の研究を、僕が研究室に入ってくる以前からやっていたこともあって、人工知能に対する態度は東大とはかなり違ったんじゃないかと思います。
桐原 どうしてそんなことをお伺いしたかというと、やはり京都学派的な発想と人工知能における「人間とはなんぞや?」という問いが通底しているのかなと思ったためなんですが。
辻井 京都学派の定義は難しいのですが、比較的、京都の学者というのは、分野を超えて協働する学際的なことが好きな人が多いですね。今は変わったのかもしれませんが、僕らの頃はそういう傾向が強かった。僕が大学院から助手になったあたりは、文学部で言語研究をやっている大学院生や哲学の研究者、教育学部で認知心理をやっている人たち、人類学でアフリカに行って研究をしている自然人類学のような、そういう若い研究者が、2週間に1回くらい集まって研究会を開いたりしていました。必ずしも若手だけではなくて、長尾先生や教育学部の認知心理学の梅本堯夫1先生だとか、わりとエスタブリッシュされた研究者が若手のそういう集まりをサポートしてくれていました。東大の松原さんがいた頃のAIUEO2なんかはこっそりやっておられたと思うんですけど、それとはかなり違った感じが京都にはあったと思います。