“神の手”から“AIの眼”へ──審判の消失と人間存在の再定義
ワールドカップが求めた数学的な正しさと、ポストヒューマニズムの行方
ポストヒューマニズムをいかに論じるのか
私はかつてこのレビュー記事の21回目で「神と悪魔と、人間と。量子の世界は知的枠組みの何を変えうるのか?」と題し、科学が神の座を奪ったことから、フリードリヒ・ニーチェが近代の始まりに「神の死」を宣言したこと、そしてそれに続く20世紀、ミシェル・フーコーが「人間の死」を告げたことを書いた。その際、「『人間の死』とは、誤解を恐れず端的にいえば人間原理主義(ヒューマニズム)の死を意味する。」と述べたが、私たちは現在、確実に人間という存在──あるいはすべての実在──の再定義を迫られている。
人間という存在の再定義とは、この原稿の流れでいえばサッカーにおける審判の役割を見直すことに通じている。すべてをデジタルデータとAIがジャッジするのであれば、審判の役割とはなんであろうか? 人間である必要があるのだろか?
ましてや先に見たように、審判よりもAIのジャッジのほうに信をおくのであれば、審判に必要なのは「正しさ」なのだろうか。
ヒューマニズムの次に議論されねばならないのは「ポスト・ヒューマニズム」である。フーコーが述べたのが、生物としてではなく主義としての人間の終焉であったのは間違いないが、2022年の現在、私たちにつきつけられているのは、生物としての人間の終焉すら感じさせる状況だ。端的にはAIの知的能力が一部ではすでに人間のそれを凌駕しており、レイ・カーツワイルがポストヒューマンとして論ずるように、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、ロボット工学といった分野の加速的な進化によって、人間は生物として変化を遂げはじめ、その消滅さえ予測されうる未来が視野に入ってきたのだ。
ポストヒューマンに至る思想的な転回と、いま現在、世界中の哲学者や思想家が向き合っているテクノロジーや資本主義の問題についての思想地図となるのが、哲学者・倫理学者の岡本裕一郎の『ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代の哲学入門』(NHK出版新書)である。ヒューマニズムを超えていくものとしての加速主義、思弁的実在論と、ヒューマニズムを更新しようとする新実在論が対比によって代表的論者の立場を明らかにしながら述べられる。私がこのレビューで数年にわたって論じてきた内容と通底する部分が多くあり、思索の次のヒントを得た。
私は以前、カーツワイルのポストヒューマンとは、かつて神から奪われた進化という超越的な能力をプロテスタント的な反発から人間に取り戻そうという思想ではないかと読み解いたが、岡本は同書のなかで次のように述べる。
カーツワイルがニーチェの思想についてどれほど真剣に考えていたのかは、明らかではない。だが、「人間を超える」という点で、カーツワイルとニーチェがつながっていたことは間違いないだろう。
ニーチェの「超人」とカーツワイルの「トランスヒューマン」はほぼ同じ思想だといえる。この両者は私たちが知っている人間とは別の人間の定義であることは言うまでもない。
岡本 裕一朗 (著)
NHK出版新書
